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北馬込(オイルパステル)


この春まで住んでいた馬込まで、自転車で一走り、5分ほど。
こういうトタンを張った屋根や壁の家屋は
今の町内にはほとんど見られない。
ここも周囲はすっかり新しいマンションに囲まれてしまっている。
このトタンの家は少し高台に建っているのだけどど、
まわりの新しい建物をじっと見ているように見える。
そういうところが、年老いて羽根もぱさぱさになったフクロウのようだ。

週末は法事で奈良へ。
忙しい帰省で、町をめぐる時間は今回はなさそうだ。
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馬込給水塔(オイルパステル)

この日は船をまた描きに行くつもりで出たところ、
気が変わってこの給水塔を描くことにした。
直径32m、高さ28m。
それぞれ昭和26年と29年に作られた馬込給水塔。
役目を終えて今は、災害時の水の備蓄に使われているようだ。


先日亡くなった作曲家のフランシス・レイさん、
「男と女」「白い恋人たち」「雨の訪問者」
そしてなんといっても「ある愛の詩」。
これらの映画音楽を聴くと、70年代の映画群が目に浮かんでくる。
「映画」がしみじみと人生に入り込んで、情緒に優しく訴えてきた時代。
どの作品も傑作の呼び声高かったけれど、当時はビデオもレンタルもなく、
実際に作品を見ることができたのはずいぶん後になってからだった。

小学5年生の頃、とつぜんクラスで映画、それも洋画ブームが起こった。
今にして思えばたぶん、「大脱走」「荒野の七人」
そして「猿の惑星」のTV放映がきっかけだったのではないかと思う。
ブームが起こっても小学生が映画を見るにはいろいろハードルが高く、
さらに奈良には洋画をかける映画館が少ない。
(友人のボリウッドマンによると、
 今現在、奈良市は映画館がない唯一の県庁所在地だそうだ)
映画を見るのは TVの吹き替え版で、
上のフランス映画も雑誌やパンフレットを読んで想像するか、
せいぜいテーマ音楽を聴くしかなかった。
なかでも外国の、大人の世界を音楽にして、
強烈な印象を残したのがフランシス・レイのそれだった。
今ひと言で言えば、「女たらしのメロディ」だろうか。

映画としての「男と女」は、当初スポンサーがつかず、
俳優や監督、音楽家などのスタッフはすべて友人関係、
みんな手弁当で参加して作られたものだ。
ヒロインとその元夫も、映画関係の仕事をしているという設定になっている。
映画はところどころモノクロのカットが挟まっている。
回想シーンをモノクロームで撮ることはよくあることだけれど、
「男と女」の場合は途中で資金が底をつき、
仕方なく安いモノクロームフイルムで撮ったと、ルルーシュ監督は言っている。
面白いことに、「撮影」もクロード・ルルーシュになっている。
この作品のメイキングは面白い。
監督が自らカメラを手に持って撮影した様子が映っている。
レースシーンでは監督か、その友人の車のトランクの上に椅子を固定し、
そこに座って時速200km以上で疾走しながら、監督自身がカメラを回していた。
そうやって完成した映画は公開されるやカンヌのグランプリを受賞し、
監督、役者、そしてテーマ音楽を作曲したフランシス・レイも
本作によって一躍世界のトップに躍り出た。
こういう話は大好きだ。
ほんとうに夢のように幸せな作品なのだけれど、
私が見たルルーシュ作品はこれと「男と女II」だけだ。
フランシス・レイさんの話がルルーシュ監督の話になってしまった。

ちなみにヒロインのアヌーク・エーメは、
「男と女」がなければずいぶん地味な女優さんだったかもしれない。
私はそれでもやはり、「モンパルナスの灯」のジャンヌ役が一番好きだ。

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みなとみらい夜景
(オイルパステル)

横浜へ、世田谷美術館以来二度目の駒井哲郎展。
先週出かけた日本橋の街に生まれ育った版画家の、
横浜での展覧会に足を運ぶ。
あれからもう7年たっていることにびっくりする。

2011年の回顧展に比べ、色彩を得てからの作品が少ないこともあったせいか
作品全体の印象が以前と少し違う。
ルドンのモノクローム時代の作品を隣に並べ、
その影響を「これでもか」と見せる展示は、
作品の印象を違う方向へ向けさせてしまっているのではないか。
当時の日本で、ほとんど顧みられることのなかった銅版画というジャンルに
中学生時代から没頭して打ち込んだ姿はなにをおいても尊い。
大学の同期だった野見山さんが書いているように
「それは日本の銅版画が、
 やがて日の目を見る場所に置かれるすぐ以前のことではあったが、
 当人たちはそれを予言されてはいなかった」のだ。
早世した版画家の生涯を克明に追った「束の間の幻影」、
駒井哲郎が大学へ入ったところまで読んだところで投げだし、手放した。
引越でとにかく、憑かれたように荷物、とくにたくさんの本を手放したのだ。
今になって最後まで読みたいと思う。
断捨離なんて、年寄りのすることだ。

美術館から出たら、横浜の街をスケッチするつもりが
4時半にはもう暗くなっていた。
海からの風に凍えるにはまだ季節は少しはやく、
私は隣の横浜駅まで歩くことにした。
横浜美術館にはこれまで何度か来ている。
初めてここへ来たときのことをふと思い出した。
1990年頃だったと思うけれど、何を見に来たのか思い出せない。
東京へ来てまだ3年ほど、
横浜へ来たことだけでも楽しかったことはよく覚えている。
その頃は「みなとみらい」という地名もなかった。
電車内の行き先表示の中国語標記によると、「港未来」と書くようだ。
あたりまえのことに、ちょっと新鮮な驚きがある。

その頃から最近まで、美術館のまわりはいつまでも空き地のままで、
開発に取り残されたバブルの遺産、という印象だった。
それがいつの間にか、大きな商業施設にすっかり囲まれている。
そんなに久しぶりにここへ来たのだろうか。
横浜まであたり一帯、一年中「万博」といった発光の仕方をしている。
二年ほど前に来たときの、あの広大な空き地はどこへいったのだろう。
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日本橋界隈
(オイルパステル)

写真展会場をあとにして、大通りに出る。
しかし「中央通り」とは、味もそっけもない通り名だ。
古い喫茶店で遅いランチにしようとさんざん探したが、
このあたり、観光客を相手にしない個人商店は、週末休みになっている。
そろそろ日が暮れようとする頃、
せっかくここまで来たのだからと、日本橋界隈に構図を探す。
交差点近くの舗道から見る、
髙島屋のしぶい紅色テントがこの通りの風景を締めている。

舗道脇に突き出た車よけの杭に尻をのせて描き出す。
しばらくするとひどく痛み出し、
うめき声を上げながらも、ともかく最後まで描いた。
およそ生活臭のないこの大通りも、
路地を一本入れば二階建ての木造しもた屋がまだある。
のれんの下がる一杯飲み屋なんかもあるけれど
飲めない私は店の中を想像するしかない。
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どういうタイミングで企画されたか、
日本橋の三越で「木村伊兵衛写真展 パリ残像」が開かれている。
木村伊兵衛が残した「パリ」に関する写真を
現代にプリントし直しての展示だ。

写真集「パリ」については以前、ここで詳しく書いたので触れないとして、
初版刊行後44年を経てなお、
朝日新聞社から再編集されてリニューアル復刊、さらにポケット版と、
それらに掲載されなかった別カットで構成し直された「パリ残像」、
没後パリのみで合計4冊出版されているのは、この写真家のこのテーマが、
いかに人気があるかということの証だろう。
最後の「パリ残像」収録の写真を中心に、オリジナルの「パリ」のものと、
合わせて130展点展示されている。

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土曜日、写真家で木村伊兵衛の弟子にあたる
田沼武能さんが会場で講演をされるというのでこの日に出かけた。
田沼さんの写真は雑誌「東京人」などでもよく見ていて、
作品はよく拝見していたものの、ご本人を見るのは初めてだった。
木村伊兵衛の愛弟子さんだけあって、
撮影の裏話や、当時の生活をたいへん楽しく聞かせてくださった。
少し再録しておこうと思う。

まだ戦後間もない頃のこと、外国へ行くこと自体、たいへん難しかった。
働いても給料も出なかったのだから、外国へ行くなど夢の夢だったという。
田沼氏が給料が出なくて困っていることを木村に言うと
「ばかやろう」と怒られた。
「仕事をしながら写真の勉強をさせてもらっているのだから、
 金を払ってもいいくらいだ」
とのいい草だったが、その通りだったと田沼さんは当時を振り返る。
会社は何か事件が起こるとカメラは貸してくれる。
でもフイルムが入っていなかった、ともいう。
田沼さんは木村伊兵衛といた会社のほかに、もう一社在籍していた。
給料はそちらでもらい、こちらでは無給で働いていたという。
それを会社も「そうしたほうがいい」と勧めていたというからおかしい。

当時木村は、通信社に海外から送られてきた写真を見る機会を得た。
その中に、カルチェ・ブレッソンが撮影した、あのマチスの写真があった。
たいへんな衝撃を受けて、なんとかブレッソンに会いたいと思う様になったのが
海外へ行きたいと思うようになった端緒だという。
あるとき、マグナムのカメラマン、ウエルナー・ビショフ氏が来日することになり
日本での案内役を木村自身が買って出た。
英語が話せない木村は、
アメリカ人と結婚したあとに別れて出戻ってきていた娘さんを通訳に
東京の下町をはじめ、8ヶ月ものあいだ日本を丹念に案内するとともに、
自身の暗室をも提供した。
その実、海外の写真家の仕事ぶりを見ることができ、
後々、同じ写真家として得がたい経験になったという話はよくわかる。
ビショフ氏にはぜひ海外へ来て、ブレッソンにも会うように勧められ、
その世話を引き受けることを約束した。
ビショフ氏は同じマグナムのキャパにそのことを話し、
キャパも来日時、木村に訪仏を強く勧める。
ところが直後、キャパはインドシナで亡くなり、
ビショフ氏も取材先で交通事故に遭って亡くなる。
そのまましばらくその話は立ち消えになっていたが、
ふたたび渡欧の話が持ち上がると、友人たちからの募金をはじめ、
アサヒカメラの支援、
当時勤めていた会社以外の、たとえば日本光学(ニコン)に臨時の社員として
「視察」目的の出張扱いという異例の支援と、
まったく「日本らしくない」、社会の垣根を越えた支援を受けて渡欧するのである。

木村はパリで念願のブレッソンに会い、
パリの下町の案内人としてロベール・ドアノーを紹介された。
このドアノーの紹介が、撮影の成功を決定づけたと、田沼さんは力を込めて言う。
また、写真集「パリ」よりも先に出版された外遊写真集にも掲載されている、
女優やファッションモデルを撮った写真がある。
ファッション写真も撮ったドアノーの撮影に立ち会った折、
隣で撮影させてもらったのだそうで、彼らの懐の深さを感じざるを得ない。

写真集の後半で、パリ郊外を車で走って撮影した写真がある。
とてもいい風景なのだけれど、限られた撮影旅行でどうしてこんな所に行ったのか、
不思議だったのだけれど、これはブレッソンのブロアの別荘に招待された折、
通りかかった車の中から撮影した景色なのだそうだ。
(このあたりは写真集の撮影日記にも書いてある)

私は木村伊兵衛のパリの写真は、本国フランスの人にとってこそ、
より大きな驚きを感じるのではないだろうかと思っていた。
田沼さんによると、数年前にフランスから、
木村が撮ったパリを本国の写真展で紹介したいと、依頼がきたという。
やはりフランスでも、この時代のパリを撮った「カラー写真」は
いいものはほとんどないそうで、開催後は大きな話題になったそうだ。

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木村伊兵衛は女性を撮っても、街やそこに住む人を撮っても、
すべてその生活が感じられる一瞬を撮ったのだという。
さらに、どんなカットでも一つのシーンで
シャッターは3回、多くても5回ほどしか切らなかったという。
もちろん撮り直しなどは絶対にせず、その一瞬に勝負していた。
「本当に天才だった」と語る田沼さんの表情に、師に対する愛情の深さがにじむ。
面白いのは、あれほどカメラ機器、とくにライカを愛したのに、
雑誌で「ライカ使いの職人」と書かれると、すぐさまカメラ屋へ持っていって、
当時使っていたライカを売り飛ばしてしまったそうだ。
「写真はカメラのおかげ」ではないぞ、ということだろうか。
「あれ(売飛ばしたライカ)を買っときゃよかった」と、田沼さんは笑う。

講演後、会場を巡って写真を指しながら、いつまでも語り続ける田沼さん。
氏を囲む聴衆もまた、みんな本当に楽しそうで、とてもいい講演会だった。

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(個人的には、この競馬場で悔しさにじませる、ご婦人の写真が好きだ)

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(伊兵衛氏はこんな力関係がにじむ男女をよく撮っている)

展覧会は11月5日まで。
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眠(オイルパステル)

ようやく体調がもとに戻ってきた。
でもまだ眠い。

安田純平さんがカタールで無事に解放されたとのニュース、
ほんとうによかった。
家族の人のよろこびはどれほど大きかっただろう。
安田さんがジャーナリストだったからではない、
一人の誘拐された被害者が無事だったこと、
仮にひとりの旅行者であっても、それは少しも変わらない。
何年か前の湯川氏と後藤氏のことがあったから、
かなり悲観的になっていた。
さらにその10年ほど前、フセイン政権(戦時)下のイラクを旅していた
邦人バックパッカーが誘拐、殺害されたときには
「あんなところに旅行に行く方が悪い」と
日本で同情的な意見がすごく少なかったのは、ひどい話だった。
海外では当時、海外を旅する若者に対するその考えが、
理解できないことだと伝えていた。
「自己責任」と言った人は、その理由がわからないだろう。
役に立つから、立派だから助けるべき、自己責任だから放っておけ、
これは獣の考え方だと思う。
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