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NHK_フジタ

NHKでフジタの番組を見る。
番組内容がほぼ同じ、日曜美術館と特番の二番組を
同じ日に放映する力の入れようだ。
NHK主催の展覧会に合わせた企画番組のようで、
近年フジタの遺品がフランスに寄贈されたと紹介されていた。
その遺品に混じって発掘された録音テープ、
そこに残されていたフジタ本人の声を初めて聞いた。
NHKとしては、これが今回のスクープなのだろう。
晩年の録音なのでやや老いは感じられるものの、
聞き取りやすい、アナウンサーのように通る声。
女性にもてる男というのはまず声がいい。
声の良さは説得力の強さに通じる。
フジタの声は初めて聞いたにもかかわらず、
思っていた通りの声、という印象があった。
しかし自作自演の講談は陽気なお面をつけているにもかかわらず、
にじみ出る寂しさは隠しきれない。

Foujita_02
Foujita_01

野見山暁治さんのエッセイに、画家晩年の姿を伝える文章がある。
それは巨匠がパリの夜の街角にひとり立っていて、
その孤独な背中をフチ取るような、文字によるデッサンである。
初めて聞くテープの画家の声には品があって、艶さえ感じられるにもかかわらず、
野見山さんが書き残した老いた巨匠の弱々しい輪郭を、
そのままなぞるような音声だった。
その頃の日本人絵描きがどれほどか夢見たフランス、
彼の地で日本人として唯一無の成功を手に入れたフジタは逆に
祖国と決別しながら、どうしようもなく日本への郷愁を募らせていた。
テープの肉声はその悲哀をとどめている。
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日曜美術館で戦没画学生、久保克彦の作品を取り上げていた。
久保が遺した美大卒業制作の前でコメントをしていた現役の芸大生たちは
描いた当時の画家と同年齢である。
平成生まれの現代っ子たちが作品の前で、あまりに幼い印象だ。

戦没画学生


戦没画学生の作品が初めて表舞台に出たのは、
1977年のNHKの企画に始まった取材によると思う。
私はその番組を見ていない。
中でも当時、「対象」という画題だったこの作品「図案対象」は、
戦没画学生の作品群の中でも異色の作品で、
私はその後出版された作品集でこの作品を初めて見た。
反戦の色濃く描かれたシュールな世界で、
一目見て忘れられない作品だ。
5作品一対だったとは今回初めて知った。
真ん中の戦闘機が墜落しているメインの画は、他の4作と比べてやはり異色で、
これ一作でも作品として十分に完成している。
久保克彦は短歌や散文にも優れたものを残している。
画学生たちの画集に、野見山暁治さんが久保の散文詩を書き写している。
詩を少しも解さない私のような人間にも、どこか響いてくるものがある。
文人だった父上は萩原井泉水の高弟だったと言うからその影響もあるのだろう。
井泉水といえば尾崎放哉や山頭火の師でもある。

学生やコメンテーターは「戦争を前にしてこの作品を描いたのは」
と前置きをして色々分析をしていたけれど、
戦死した画学生たちの中でこのような戦時色を感じられる作品自体、実は珍しい。
例外だったと言っていい。
1970年代に戦没画学生たちの作品集が初めて出版される際、
遺族を訪ねて回って2年間の旅をした野見山暁治さんは最初、
遺された作品があまりに変哲も無い日常が描かれていたことに、
いささか拍子抜けしている。
「人々は自己犠牲のラッパが高鳴るような美しさを期待していた」のだ。

遺族は遺された作品を大切にとっていた。
戦死した人は野見山さんの同級生にあたる人が多く、
訪ねた先で「あなたはどうして生きているのですか」と聞かれ、
あるいはそういう目で見つめられながらの旅だった。
同様に遺族を訪ねていた人は他に二人いたが、
そういう辛さに耐えきれず、早々に辞退した。
残りは野見山さんだけで続けることになった。

卒業と同時に戦地に赴くことを義務付けられた学生たちが、
いわば執行猶予とも言える期間に、どのように仕事と向き合ったのか。
ほぼ確実にやってくる死を前にして何を描いたのか。
何か劇的なものを予想して包みを解くと、
そこにあったのは、あまりにありふれた日常で、
戦争を感じさせるものはまるでなかったということだ。
身の回りにある風景、家族、恋人、兄弟、
人間は死を前にして描くのは、かけがいのない日常ということなのか。
とくに油彩画においては、私のようなものが見ても
描かれた作品は多くが拙く若い。
作品が表す未熟さは、彼らが死んでいった若さを示している。
さらに当時、西洋の本物の油絵を見られる場所は、この国にはまだなかったのだ。
そんな時代に、番組で取り上げられた久保克彦のみが
抜きん出てモダンで成熟した作品を残した。
しかし遺された作品はあまりに少ない。
一つの作品を掘り下げるよりも、
彼ら戦没画学生が残した作品全体が問うものを見つめたい。
若く拙くとも、一途に残した作品群から伝わるものは
いつまでも余韻を引く。
私は彼らの倍以上を生きて、一体何を残してきたのだろう。

遺作集が出版されて約20年後、
野見山さんは窪島誠一郎さんとともにふたたび遺族を回って作品を集め、
瓦一枚の募金を募ってできた美術館が
長野県上田市の「無言館」である。
現在、それからさらに20年が経っている。
奄美の杜

週末に田中一村を取り上げた番組を見た。
最初に見たのはもちろん日曜美術館で、第一回目の放映当時(1984年)、
番組が発掘した無名の画家として大きな話題になった。
作品集も購入して食い入るように眺めた。
(30年前のNHK出版のこの本、今見ても印刷の色がすばらしい。)
その後日曜美術館だけで3回、そのほか何度も田中一村の番組を見たはずなのに、
今なお見るたび胸につまる。
田中一村、私が高校生の頃はまだ私と同じ空気を吸い、
奄美大島に生きてあの作品に筆を入れていたのだ。

どの分野であれ、新しい表現というのは常に追求される。
とりわけ日本画というのは難しい。
遠目には油彩画との区別が難しいものもあって、
画材による日本画、洋画の区別自体がナンセンスとも言われる。
一村の作品を前にすると、「新しさ」とか「リアリティ」とか「個性」とか、
そんな言葉がどうでもよくなってしまうような、画そのものの力がある。


略年譜
田中一村、明治41年7月22日栃木県都賀郡に彫刻家の長男として生まれる。
大正15年、東京美術学校に、東山魁夷や橋本明治らと同期で入学しながら、
結核を患って3か月で退学。
昭和22年、青龍展に出品した作品をめぐり、川端龍子と意見を異にし、
以後画壇との接触を断つ。
昭和33年12月、奄美へ
以後5年働き、3年絵の制作に没頭する生活をおくる。
昭和51年、軽い脳溢血で倒れ、画業はかどらず。
翌年、奄美での全作品を持って上京、友人に見せるもふたたび奄美へ持ち帰る。
この時、一村の作品に光が当たる唯一のチャンスだったことになる。
その4か月後の昭和52年9月11日 名瀬市有屋の自宅で
夕食の準備をしていたところ心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じる。
(「田中一村作品集」NHK出版より抜粋)

奄美の杜2

一村は絵の制作について語ったことがある。

(日本画は)一気呵成に線を引かねばならないので、
極度の緊張と精神の集中を要します。

絵描きは血圧が上がらなければいい絵は描けません。
まず左目で三時間画布を見つめます。
そうしますと血圧が上がってまいりますので、一時間くらい氷で額を冷やします。
それから右目でまた三時間画布を見つめます。
やっと中心が決まりますので、点を打ちます。

(自分の絵を見るときの一村の様子)
正座したランニング姿は総身鳥肌立ち、血管は怒張し、
こめかみはピクピクと脈打っているのです。


一村の生活と制作の様子をゆかりの人たちがそう言い残している。
その画家は、どうしてこのような最後を迎えなければならなかったのだろう。

「パンツ一枚で四.五畳の北西角に、西側に頭を向けてうつぶせに倒れ、
 顔をやや北側に向けて死亡していた。
 死者の近くには現金八万円、合計二百二十五万円の定期預金通帳」
近くには刻んだ野菜のはいったボウルが転がっていた。
冷蔵庫の中には、牛乳一本と、煮た南瓜を練った手製の保存食があった。
一村が「極めて低い賃金でした」と語った当時の職工の日当で
昭和の40年代のお金で二百万円以上蓄えるために実行された
節制の厳しさを想像する。
そしてふたたび制作に取り掛かろうという時、一村は亡くなった。

その終の住処を1997年頃に私が訪れた時は、
どういうわけか、整備された真新しい公園に移築されていた。
芝生の脇に立ったヌケガラの小屋は
在りし日の画家の痕跡を留めているとはとても思えず、
そこまでやって来た自分は肩すかしを食ったような気分だった。
島内では当時、作品を展示している場所はなく
一村の実際の作品を初めて目にしたのは、それからさらに10年後だった。

一村に実際に会った人は、一目見て皆襟を正すほどの目と佇まいだったという。
その作品群もまた同様だった。

1997_奄美
ゴッホ書簡集

近所の図書館へ行ったら「みすず書房 ファン・ゴッホ書簡全集」全六巻が
リサイクル本として「お持ち帰り棚」に並んでいた。
手で抱えるにもけっこうボリュームがあるこの全集を、
一も二もなく持ち帰ることにした。
岩波文庫の「ゴッホの手紙」でさえ3巻なのに、これは全六巻である。
読むには相当の時間と根気が必要で、私にはまず無理だろう。
それにしても大事な文献には違いなく、こういう本も今では図書館でさえ、
置いておくスペースもないのだろうか。


TVでドキュメンタリー番組「中国のゴッホ」を見た。
中国深圳近郊には複製画工房が集まっている油画村という一角がある。
日々そこで働く絵描きたちを追ったものだ。
乾燥のため、工房につるされた複製画のキャンバス群は
一人あたり一日に数十枚というペースで制作されたものだ。
もはや工場と化した工房で絵描きたちは月に何千枚と制作している。
世界の複製画市場の半分はここ油画村で制作されているらしい。
狭い室内に詰め込まれた老若男女が、黙々と筆を走らせている。
彼らは絵描きなのだろうか、それとも作業員なのだろうか。
カメラは最初、後者の目線で彼らを追っている。

主役は趙さんという絵描きだ。
趙さんはこの20年間、ゴッホだけを複製してきた、ゴッホ専門の複製画家だ。
小学校しか出ていない趙さんにとって、画は生活と人生のすべてである。
押し寄せる欧米からの注文は、自分たちが制作する画のクォリティーゆえの需要だと、
趙さんは考えている。
しかしこれまで、趙さんを含むここで働くどの絵描きも、
本物のゴッホの作品を一度も見たことがない。
中国は経済大国となった今も、
国内で美術展はほとんど開かれていないのだろうと想像する。
自分の目でどうしても本物のゴッホを見てみたいという衝動押さえがたく、
趙さん含め何人かの複製画家たちは困難な経済的背景を抱えながら、
とうとうオランダへと旅立つ。
夢が実現したことに喜びを爆発させる彼らの姿は
日本にやって来る中国人観光客たちとも
大正から昭和にかけてどんなにかパリにあこがれた、
かつての日本人絵描きの姿とも重なる。

ゴッホ美術館のあるアムステルダムに降り立った趙さんは、
そこでいくつもの重い現実を目の当たりにする。
自分が中国で描いていた複製画はオランダで10倍の値段で売られていた。
趙さんは自分の描いた画は高級ギャラリーで売られていると思っていたが
実際は土産物屋に吊って売られていたことにさらにショックを受ける。
そして美術館に足を運んでゴッホの実物の前に立った時、最大のショックを受ける。
本物と自分たちが描いていた複製画との差は比べるべくもない、遙かなものだった。
感動とショックが同時に趙さんを襲い、涙を抑えきれない。
美術館を出た趙さんは、ゴッホと弟テオの墓をたずねる。
趙さんら中国の複製画家たちは、手にした花とともにあらためて最大限の尊敬を捧げる。
中国に戻った趙さんはこれからは複製画ではなく、自分の画を描こうと決心する。
同じ複製画の工房で働く若い絵描きたちの相談を聞く趙さんの表情は、以前より優しい。

最初、ただただ生活費を稼ぐために複製画を生産している、
工芸労働者の話だと思って見ていた。
しかし教育も受けず、本物のゴッホを見る機会もない彼らもまた、
画家への夢を持って筆を手にしている事実を、映像は淡々と伝えている。
趙さんがもし中国語の「ゴッホ書簡全集」を持ち帰ったなら、
きっと繰り返し読んだに違いない。
ゴッホと彼らには遙かな距離があるかもしれない。
しかし素人のういういしさを生涯持ち続けた点において、
今この瞬間は、同じ光を浴びているように思える。
先週末突然1000近いアクセスが集中したのは
日曜美術館で長谷川利行が取り上げられたからだろう。
以前からGoogleで「長谷川利行」を検索すると、
私が5年前に書いた記事がトップに出てくるようになっていた。
よほど利行に関する記事が少ないのだろう。
しかし私の知る限り、利行についてもっとも充実した記事が出ているのは
今日も日暮里富士見坂」というBlogで、もうなんでも書かれている。
ここを読めば、いろんな文献に散らばった資料を探す必要はなくなるほど。
利行が好きな人には、一読をおすすめします。


番組で長谷川利行が取り上げられたのは1978年以来40年ぶりで
その時の放送を私は見ていない。
78年の放送時には、利行その人を隣で見ていた親友の矢野文夫がゲスト出演している。
私が見てみたかったのはその時の映像だった。
生前の利行については矢野文夫の本が質量とも第一だけれど、
一時共同生活もした手塚一夫と中込忠三氏との交流も興味深く、
以前私もここに紹介したことがある。
中込氏の著書から利行らとの共同生活について触れられたところを、再度紹介したい。
二人は矢野文夫が書いた利行の伝記小説にも登場する。

長谷川利行_東京放浪地図

それほど長くもなかった利行の生涯において晩年にあたる時期に多作を強い、
結果的に数々の傑作とともに利行の名を残す黒子になった画商、
天城俊彦の画廊が新宿にあったことはよく知られている。
画廊が新宿武蔵野館のあたりだとすると、利行がカンヅメにされたドヤ街は目と鼻の先、
今のタイムズスクエア(今聞いてもニセ物っぽい名前)あたりになる。
時代の先端を行くようなタイムズの前に、
つい最近までその名残をとどめる和風旅館があり、営業もしていた。
甲州街道をもう少し下ったところには今も古い旅館街がある。
伊丹十三監督の映画「マルサの女」には、
新宿南口に残っていたその闇市時代のような界隈がチラと出てくる。
坂の上にあった横町を下るU字型の奇妙な階段を、松本竣介が描いている。
私は歌舞伎町に映画を見に行くとき、そこのチケットフナキに寄るのが常だった。

利行がここのドヤ街に住んだのは最晩年にあたるわずか2年ほどのこと。
中込氏の著書によると、手塚一夫は女の横顔を描いた4号大の作品をとても大事にしていて
それは彼が上京した折に泊まった新宿の木賃宿で知り合った画家が描いた作品なのだという。
その放浪画家というのが長谷川利行である。
未払いになっていた絵の代金、残り半分を届けるため、
二人はポンポン蒸気に乗って新宿へ向かった。
残金を渡した後、中込氏と手塚は利行に
当時彼らが住んでいた船堀の家に一緒に住まないかと持ちかける。
その折に見た、木賃宿に置かれた利行所有の品々の描写が興味深い。

新宿南口界隈1992
('92年頃の新宿南口界隈)

「こういうところに住まないと絵が描けないからここに暮らしている。
 親切らしく呼びに来たって行かないぞ!」と一度は拒否したものの、
翌朝には絵箱を手に持って、「さあ行こう」と立ち上がるのだった。
暮れに出会って共同生活を始め、春に(利行が)出て行ったとあるので
共同生活は3ヶ月ほどか。
その間、利行の馴染みらしい年増の裸婦モデルを手塚と二人で描いたり、
川で洗濯したり、というような牧歌的な生活が続いたものの、
最後は利行の酒びたりの生活に嫌気がさした手塚が利行を閉め出したため、
三人の共同生活は終止符を打つ。
ふたりの画家に残された残りの「生」の時間は余りに少なかったが、
彼ら自身はもちろん、中込氏もその時、そのことを知る由もない。
にもかかわらず、当時目にした二人の画家とその周辺の描写は驚くほど詳細だ。
登場する人物、あたりの空気感が生き生きとしている。

 「老画家はやがて市の養育院板橋本院で一人その生涯を閉じたと聞く。
 彼の短歌もまた美しい。

 汚れたる 枕の紗綾をとりかえつ
 夜床さびしくひとりねむれる

 死の枕辺にはニイチェの「夜の歌」が置いてあったということである。」
というところで、中込氏の著書「炎の絵」の利行に触れた章は終わっている。

貧しい農家の出だった手塚一夫が描いた一枚の絵を見たことをきっかけに、
彼が亡くなる28歳まで生活一切の面倒を見た中込氏は、
自身の晩年に至るまでそのことについてほとんど語らなかったそうだ。
氏の人となりをうかがえる挿話として、若い日の小学校教師時代のことがある。
成績優秀で人柄も良かったある生徒を級長に推薦したところ、
中国人だということで校長から拒否にあった。
怒った中込氏は、ついに教職を辞職し、以後小学校教諭に戻ることはなかった。
その後さまざまな職につき、のちに中央大学のドイツ語教授として定年まで勤めた。
この人の一生は二人の画家以上に波乱万丈だ。

中込氏の残した文章を多く読むことができたのは、
実は私がここで書いた氏の著書「炎の絵」についてのBlog記事を読まれたご子息が
文献と手塚一夫関連書籍一式を、以前送ってくださったからである。
ここで再度感謝を申し上げます。

Tag:長谷川利行

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