鉄橋
(ペン、インク)

今日は珍しいことに、3回ほど話しかけられた。
画材のことを毎回聞かれる。
ペンで描いているのは珍しいようだ。
また、
「何日か前もこのあたりで描いておられましたね」ともいわれるが
それは別人だ。
ほかにも多摩川で描いている人がいるらしいけれど、私は会ったことがない。
みなさん好奇心おう盛で、なおかつおだやかな話し方をされる。
涼しい夕暮れ時に夫婦で、あるいはお年寄りが杖突きつつ川辺に散歩に出て、
絵を描いている人物に声をかける。
同じ東京に、そのようなおだやかな暮らしがあるのかと、不思議な気がする。
話し方と声には、その顔や肩書き以上にその人となりを伝えるものだ。
顔も一目見れば、人格の半分くらいは想像はつく。
夕べのニュースを騒がした二人の人物の顔を思い浮かべる。
「筋を通して、もうこれ以上理不尽な仕事をさせないで欲しい」
と直訴する官僚の元えらい人と
それを、彼は信用できない人物だから、話は聞かなくてよい、とする政治家と
はたしてTVの前の人たちはどちらを信用しただろうか。
不祥事の責任を取ったとはいえ、
あんな人を辞めさせたのか、惜しいことだと思う。

気温が30度近くまで上がったけれど川風があったので涼しく、
よく晴れていたけれど雲があったので描きよかった。
世のなかに、いやなことは何もないのだと錯覚しそうな
おだやかで静かな梅雨入り前の休みの午後。
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野島崎灯台
(ガッシュ)

2011年のベン・シャーン展の図録の中に、安西水丸さんのインタビューが掲載されている。
「この画集は宝物みたいで、何度見たかわかりません」と言っていたのは
「世界名画全集 16 ベン・シャーン」(平凡社刊)という本だ。
全集というにはけっこう薄く小さめの本で昭和37年に発行されている。
展覧会図録の中で、水丸さんのその記事を一番よく覚えている。
水丸さんが勧めていたせいかわからないけれど、
この全集が古書店でただ同然の価格で売られている中で
ベンシャーンの巻だけやや高い。
水丸さんはこの本でベン・シャーンをはじめて知り、
当時のクリエーターのほとんどがそうであったように、のめり込んだ。
私は、水丸さんの記事を読んでこの本を買った。
紙も薄く印刷も現代とは比べるべくもないけれど、
力の入ったページは別刷りでのり付け製本されていて、けっこう味わい深い。
装丁デザインはあの原弘。
ちなみに水丸さんはデザイナー時代に平凡社に勤めていた。
同僚には嵐山光三郎氏がいて、同い年だった。
嵐山氏は自分が当時関係していた雑誌ガロに水丸さんを誘い、
水丸さんはそこで漫画を描くことになった(編集長は南伸坊氏)。
(同時期に電通時代の同僚だった荒木経惟氏もガロに連載を持っていた。)
ここで初めて「安西水丸」のペンネームを使った。

水丸さんゆかりの地をたどる遠出は最後の場所へ。
野島崎灯台は水丸さんが少年時代、ここを写生してコンクールで金賞をもらった。
以来、イラストレーターになってからも繰り返し描いている。
日本初の洋式灯台で、下には資料館もあるのだけれど、
私が着いた時には職員の人がまさに退館しようと施錠している時だった。
海岸側の遊歩道へと回って描く場所を探す。
ゆかりの地めぐりは水辺ばかりをまわった。
水辺の画家マルケ、水丸さんもとても好きだったそうだ。

少しずつ辺りは暗くなってくる。
早々に岩の上に場所を決めた。
着彩しようと筆を持った時、灯台に光が灯った。
明治から毎夜灯り続ける海へ向けての安全の灯。
観光遺産にもなっているためか、灯台自体もライトアップされている。
手前には壁がはげかかっている、これも古い建屋があって、
屋根から大型のサイレンが突き出している。
海岸は冷えてきた。
ヤッケは潮風を浴びて湿っぽくなっていた。

野島崎
安房白間津灯台
(ガッシュ)

水丸さんは、鋭い観察眼と審美眼をもって
人の何気ない仕草や行動にポツリ、厳しい指摘を入れる。
電車で本を読んでいる人を見て、手にした本に貼られた図書館シールに目を留める。
「いい大人がよくあんな図書館シールが貼られた本を電車で読むな、と思う」
これは耳が痛い。
私が水丸さんの本を読んでいるのもほとんどが図書館で借りたもので、
シールもしっかり貼られている。
ちょっと言い訳をすれば、水丸さんの著書は多くが絶版で古書価格もかなり高い。
デビュー作の「青の時代」などお金を出しても入手困難な稀覯書だ。
私は再販ながら(初版は函入り)たまたま入手できた時はうれしかった。


陽が傾いてきたので、千倉港の先へ移動する。
水丸さんの自宅からは白間津港のほうが近かったと思う。
でも白間津港には寄らずに、そのすぐ先の「安房白間津灯台」へ向かう。
水丸さんの本に、海岸の岩の上に孤立するこの灯台の写真が掲載されていて
来たら必ずここを訪れたいと思っていたのだ。
日没まで時間もないことだし、着いてすぐここを描くことにした。
構図も掲載写真とほぼ同じだ。

さっきまで晴れていた空は、にわかにかき曇って今にも降り出しそうだ。
灯台は想像以上に寒々しい風景に建っており、潜水艦ハッチのような入口がある。
中はどうなっているのだろう。
テンバの六造が魚や貝を採ったのは、漁協の近いこのあたりの海だったかもしれない。
(六造は漫画の「青の時代」、小説短編集「荒れた海辺」などに出てくる流れ者)

水丸さんの住んだ家は母方の旧家で、
網元だったこともあって石垣のある大きな屋敷だったようだ。
建物はもう残ってはいないので探しようもないけれど、
その入口の門は高倉健のデビュー作のロケで使われことがあったという。
この広大な一枚岩のような海岸も、アクション向けの舞台ではある。

「春の海はまだつめたく
 波はブルースピネルのように青い
 風が吹くと
 色とりどりのセロハン紙が
 海面でめくれていく

 ぼくはこの海で育った
             (「荒れた海辺」より)

灯台は砕ける波頭を背景に、がっちりと打ち込まれた杭のように見えた。
千倉港
(ガッシュ)

水丸さんの生涯の時系列からすると逆になるけれど、
二日目は足を伸ばして房総の南端、千倉へ向かった。
昔、肺に疾患のあった子供が多くそうしたように、
気候の温暖な海辺の土地へと療養疎開し、水丸さんは3歳から母と二人でここで過ごした。
自伝的な小説、漫画、エッセイが多い水丸作品の中でも、
千倉で過ごした頃を題材にした話は繰り返し出てくる。
何度出てきてもおもしろいし、どこまで事実なのかわかもらない。
水丸さんの生前、すでに大きく変わってしまったこの地を、
再度訪れることは怖くてできなかったとも書いている。
私がここを訪ねることに何ほどの意味があるのかとも思うけれど、
ファンの心理というものはそういうもので、その地を歩くことが楽しい。

千葉は東京の隣とはいえ、かなり遠かった。
高速を使わずに車を走らせると、4時間ほどもかかって千倉駅に到着した。
ほとんど人通りのない駅前に近代的なコンクリート打ちっ放しの駅舎が唐突に現れる。
やはりという感じだけれど、ちょっと歩くとあちこちに
水丸さんの少年期から建っていたとおぼしき古い家や店舗がポツリポツリ。
時刻は既に午後の二時、駅前の食堂でかき揚げ丼を食べて港へ向かう。
船着き場を境に右が漁港、左が砂浜の海水浴場になっていて、
昨日の湘南とよく似た、大勢のサーファーが散り浮かぶ風景が広がっている。
水ははるかにこちらがきれいで、昨日ビーチを描いたので今日は漁港を描くことにした。
水底に沈んで真っ白に見えるのはすべてサザエで、
水丸さんが子供の頃から好きだったサザエのカレーというのを思い出した。

千倉-1

少年期をモチーフにした小説に出てきた荒くれ友人「八丈のタツ」が放校になり、
東京湾を挟んで伊豆へ船で出て行ったのはこの港からだろうか。
悪友というのは人の生涯に強く切ない印象を残す。
流れ者で片腕の「テンバの六造」が遭難者を救うため、
嵐の海で死んだのはどのあたりだろう。
この海に多く従事した海女さんが天草を採っていたのもやはり西の方の岩浜だろうか。
事実とも架空の話ともつかないシーンを、いろいろ思い浮かべていた。

左の堤防越しに打ち付ける太平洋の荒波の音がどーん、どーんと聞こえる。
そこから見える水平線は岸の見えない、広い太平洋の一本線。
この一本の水平線は水丸さんの絵に、生涯寄り添っていたように思う。

千倉-2
茅ヶ崎
(ガッシュ)

2014年に急逝したイラストレーターの安西水丸さんは
イラストだけではなく、文章でも足跡を残している多才な人だ。
「誰からも愛された絵」とは水丸さんに
キャッチフレーズのようについてまわる言葉だけれど、
その独特の絵を雑誌などで目にしていても、名前は知らない人が今は多いかもしれない。
私自身、デザインの世界に入ったときにはすでに超売れっ子で
それゆえ逆に、最近の雑誌でその画を見たときにはどこか懐かしい、
つまり1980年代を最も感じさせるイラストレーターだった。
その安西水丸さんが亡くなったとき、日曜美術館で追悼番組が制作された。
2014年放送のとてもいい番組で、今までなん度も繰り返し見た。
以後、エッセイや本を読んだりしながら
私が水丸さんを本当に知りはじめたのは、この時からだった。

水丸さんは画を描くのが好き、という点では誰にも負けなかったと書いておられる。
「いい絵とは何だろう」
和田誠氏とともにそのことを繰り返し語っていた。
それほどの絵好きが本業のイラストレーションより先に手がけたのは漫画だった。
(その頃の職業はまだデザイナーだった)
まず嵐山光三郎氏に勧められてガロ誌上に漫画を3年間休まず連載し
その後「青の時代」という初の作品集に結実した。
日曜美術館でもそのさわりを放映、朗読していたが、かなり変わった作品群である。
というのも水丸さん自身、映画にしても漫画にしても、
起承転結があってオチにつながるストーリーにまったく興味がないという
かなり変わった嗜好があるからだ。
それはその後発表されたナンセンスマンガの「普通の人」に最もよく現れている。
その後村上春樹氏に勧められて小説を書き始めたとき、
その不思議な文章世界は他に類を見ないものになった。
詩情がありながら情緒的な湿度がまったく感じられない。
リリカルハードボイルドとでも言ったらいいだろうか。
それはイラストレーションも文章においても受ける印象は少しも変わらず、
まれに見る画文一致のスタイルである。

水丸さんは多趣味で知られるが、とくに民芸や建築、
そして日本史、とくに戦国武将についての造詣が深い。
それらの知識を土台に、最も好きだった映画についてのエッセイは
他の人にない視点がある。
だいたい歴史好きの人というのは記憶力がいい人が多い。
水丸さんも例に漏れず、映画についてのエッセイでもその才は発揮され、
脇役の名前や出てくる小物、建築物に至るまで驚くほどよく覚えている。
自伝的エッセイでも、40年近く以前に家を建ててもらった近所の大工の棟梁が
酔った勢いで読んだ出来の悪い俳句を覚えていたりもする。
ちなみに水丸さんはこれも知人の勧めで俳句を詠み始めたが、
句においてもタッチはやはり変わることがなく、独特の優しい虚無感がある。
視点と言えば、人生に挫折を経験した人物に焦点を当てた、
舞台の真ん中には決して立たないような人物を取り上げたりしているのも特長だ。
浮き上がれない人間が機を得て這い上がってゆくのではなく、
そのまま消え入るままに描いているところに引き込まれる、不思議な作家だ。
これは著書「4番目の美学」にも結びついている。
余談で、私はアキ・カウリスマキ監督作品が大好きなのだけれど、
水丸さんもきっと好きなのではないかと思っていたらやっぱりそうだったので、
とてもうれしかった。

ペンによる線画にカラーシートのPANTONEを切り貼りして作る、
水丸さんの代表的なスタイルのイラストのほかに、
色鉛筆やペンなど、さまざまなスタイルで描いている。
中でも私は、ブルーのインクの万年筆だけで描かれた、
「ブルースケッチ」といわれる作品群がとても好きだ。
この連休、水丸さんゆかりの地を、2日かけて訪ねるにあたり、
私も同じ青いインクでスケッチしようと思って、新しい万年筆を買ったりした。
無邪気なものである。

天気もよく、ほぼ半袖で過ごせた最高の行楽日和、
一日目は、水丸さんお気に入りの土産物屋のある江ノ島に行ってみた。
現地は想像以上の大変な混雑であった。
なぜ少年時代に住んだ千葉県千倉でもなく、晩年に住んだ鎌倉山でもなく
江ノ島なのかというと、2001年に水丸さんがここの土産物屋をTV番組で訪れたおり、
隅っこにあった木の灯台をうれしそうに購入している様子を日曜美術館で再録していた。
水丸さんは日本の土産物屋の中で、江ノ島ほど好きなところはないと生前語っていた。
そこで購入していた木製のいかにも古そうな灯台の玩具が、以後気になって仕方がない。
というわけで出かけたのだけれど、しかし、やはりというか、
もうお店には売っていなかった。
店の若主人にお聞きしたら、当時もすでにこのお土産は作られなくなって久しく、
仕方がないので木地のみを注文して仕入れ、先代の父上とともにふたりで
自ら絵付けして売っていた最後の残りだったのだということだ。
実直そうな店主親子が、深夜手描きで灯台の絵付けをする姿が思い浮かぶ。
私のように今でも番組を見てその灯台を買いに来るお客さんがいるとのことで
今後無駄足にならぬよう、私がここに書き留めておきます。
下の写真は最後の灯台ふたつを水丸さんを偲んで展示してあるもので、非売品である。

水丸さんの灯台

画は、その江ノ島からほど近い茅ヶ崎の海岸を描いた。
電車のアクセスはではそこからちょっと不便で、江ノ島から内陸へ藤沢まで戻り、
JRで茅ヶ崎まで移動しなくてはならない。
駅から海へは徒歩でさらに20分ほどかかる(バスがあるんだろうと思う)。
水丸さんは散歩がてら(という割には離れている)この茅ヶ崎の海によく来ていたという。
少年時代を過ごした千倉の海に似ていたからかもしれない。
水丸さんは病弱な少年時代、療養のために疎開していた外房の荒海で、
波乗りをしていたのも意外なことだった。
ここでサーフィンをしている若者を見ていて、
「彼らは波がよくわかっていないようだ」と、たびたびエッセイに書いていた。
水丸さんの文章のもう一つの特長は、ソフトな語り口ながら意外に手厳しい毒舌である。

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