先日の代々木公園での著名人のスピーチのなかで
作曲家の坂本龍一氏のコメントが、後日たたかれていた。
「たかが電気」云々の言葉をつかまえて、「電気音楽で食っている奴が何を言う」
つまらぬ揚げ足を取られていたかっこうだった。
「たかが電気」はもともと京大の小出裕章さんの言葉である。
大きな舞台で安易に引用したために突っ込まれたのだろう。
誤解もあるかもしれないが、突っ込まれる要素はやはりあったのだろう。
それにしても氏は音楽家なのになんで文学者然とした丸めがねをかけているのだろうか。

「たかが電気」には二通りの意味があるように思う。
ひとつは、電気をつくるのにはいくつもの手段がある。
原発だけが発電方法ではない、石油でも石炭でもガス、水力でも可能であり、
なにもこんなに危険で、国ばかりでなく人類も危うくする手段でつくらなくても良いではないか、ということ。
もうひとつは、過去の原発で起こった事故、
そこで亡くなった犠牲者の悲惨な最期や、昨年の原発事故で失われたものの大きさを思えば、
それと引き替えに得るのはたかが電気なのだということ。
核以外にいくらでも作る方法がある、だから「たかが電気」なのだろうと、そう思う。
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2012.07.20

15日の代々木公園に出かけた人がそれに満足して今日はぐっと参加者が減るだろうと思って出かけた。
前の方はどうなっているのかわからないが、どこにいても個人それぞれの意志に変わりはない。
辺見庸が震災当初に口にしていた、
「問われているのは、国でもなければ民族でもない。
 今、真価が問われているのは明らかに、疑いもなく個人」である、との言葉を思い出す。

今日、鳩山前総理がやってきて、みんなの声を(官邸の)中に伝えてくると乗り込んでいったらしい。
「パフォーマンスだ」「いまさら」といくらでも突っ込むことはできるだろう。
しかしこのおとなしいデモ自体で何も変えられるわけではない。
これを通して政治家を動かせなければ何も変えられないのである。
その点で今日、彼が最初に動いたことには意義があったのであり、
続くものが出てくるのを願うばかりだ。

鳩山氏は良くも悪くも学級委員である。
リーダーではある(あった)が悲しいかな、それくらいのスケールである。
20120716-1

コンサート、LIVEが好きじゃないのは、
ミュージシャンと「1対多」の関係になるのが嫌だからだ。
友人から誘われてもほとんど行かない。
ましてやデモや集会など小さい時から拒否反応が強く、今現在でもそれは変わらない。
それがこのところの原発再稼働への抗議、脱原発の集会にはとうとう足を運んで参加している。
その理由を明解な言葉で表すことができないでいた。

今日代々木公園で大江健三郎氏がこんなことを言っていた。
「今我々は、侮辱の中で生きている」と。
国民の6%以上にあたる750万人もの署名を集めても、
国は平然と原発を再稼働させ、そのことで自分はたいへん落ち込んだと。
大江氏はその膨大な署名を電力会社や国に持ち込む時に同行したのだったが、
たらい回しにあった上で再稼働され、さらに稼動原発の数を増やそうとしていることに対し、
国や電力会社からの侮辱にさらされて生きていると感じているのだと。
大江氏に同行はしなくとも私たちは皆同様に、等しく侮辱にさらされて生きているはずだ。
ふだんの言葉で言えばまったく「なめられている」のだ。
政権を託したことと引き替えに交わした約束は堂々と反故にされた。
いくらNOと言っても何一つ止められない。
あらゆるところでその実例に直面する。
自分が、足を運んでいる理由もこの「侮辱にさらされて生きている」ことにある。
ちっぽけな生であるけれど、ずっと黙っていることには大きな「自由」の危機を感じる。
家族や子どもの将来にいくらかの責任もある。

参加者はあらゆる年齢層に渡っていたが、この真夏日の中、高齢者が多いことに驚いた。
イベントの冒頭、ゲストとして舞台上で発言していたのも(言葉は悪いが)老人ばかりだった。
若者は自分の将来を描けず、企業は人を育てる余裕もない。
歩いていてふと思ったのだが、日本はこのままいけばある日、
突然死するんじゃないかと、そんな気がしてならない。

20120716-2(表参道ヒルズ前)
20120713-1
20120713-4

首相は「さまざまな声を聞く」と言っているそうだが
原発再稼働抗議のデモの立入禁止区域は毎週半径200m程度ずつ、首相官邸から外側へ広げられている。
No more Fukushima

意志を示そうにも間近に選挙はなく、
あったとしても選択肢がないことの無念。
難しいことは言わないし言えもしないが、
民主主義の「民主」の意とは、「たみがあるじ」ではないのだろうか。
国の舵を取りそうな団体は皆、民の望むこととは反対のことをやる、と平気でいう。
自分たちを「たみのあるじ」だと思いこんでいる。
そういう中で日本人が国に意志を示す方法は、もうデモしか残されていないのかもしれない。
何も変わらないだろう、という声なき声は多く、実際圧倒的に多いだろう。
しかし望まないことを「やすやすと」やられて、それでいいのかという気持ちもある。
要は、自分はこの日本で今生きているのか、そういうことだと。

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