東京湾をゆく船-46(オイルパステル)

仕事から帰って深夜のニュースを見る。
ため息をつくニュースばかりで精神に良くないこと、はなはだしい。
「民主主義の根幹を揺るがす〜」という前置きのニュースが毎週出てくる。
この国に民主主義があると思っていることがまず誤解だ。
地方の災害や野党の言うことなど意に介さず、
自分たちのやりたいことを、今や自由気ままにやっている、という感じだ。
その行動が「どうせ(多数決で)決まるのだから、議論など必要ない」と言ってる。
博打で誰を幸せにするのだろう。
今のままで外国人観光客は十分すぎるくらいあふれている。
働き方を変えると言うけれど、こちらも幸せになれるのは何人いるだろうか。
私が以前勤めていたところでは、これとほぼ同じ試みをしたことがあった。
意図は最初からわかっていたが、
従業員で幸せになったものはやはり一人もなく、
会社はあっという間に求心力を失った。

多数決が民主的、と思っている限り、
今の政治屋はこの先もやりたい放題だろう。
数が多い限り、やりたいことはすべてやれると思っているし
実際やっているのだから。

宮本常一の「忘れられた日本人」に、対馬の村の寄りあいの話が出てくる。
岩波文庫で最もよく読まれている一冊であるこの本は
「土佐源氏」の章が有名だけれど、どの話もとても面白い。
巻頭の「対馬にて」では、たずねた村の古文書を気軽に「貸してもらえないか」
と頼んだところ、村の寄り合いにかけられ、
夜も昼も無く皆が納得ゆくまで話をするという村の話が出てくる。
そのときに限らず、どんなこともみんなの合意が必要な事柄には
同じようにみんなが納得ゆくまで話を尽くした。
夜も昼も無く何日でも話し合って決めてきたのは
少なくとも数百年前から変わっていないという。
話し合いはこんな感じで進められる。
一つの事柄についてそれぞれ自分が知っている限りの事例を挙げてゆく。
そこでは議論をするというのではなし、ただただ人の話を聞く。
話は脇道にそれてゆくこともあるけれど、いつかまた元の路にもどる。
気の長いことだけれど、それでも3日あればたいていは決まったそうである。
隣村でも同じように村の古文書を借りたいと申し出たときには、
遠方から3時間をかけて長老が船でやってきた。
身につけたのは紋付き袴で、寄り合いはそれだけ厳重なものだった。
そしてやはり同じような話し合いが延々と尽くされた。
話し合いというものをどれだけ大切にしているか、
宮本常一は長い旅の中でもこの話し合いの情景が
眼の底に染みついたと書いている。
このあたり、周辺のささいな会話や村人の描写もあわせてとても感動的だ。
(ここまで書いて以前、同じ話を書いたことがあったのを思い出した。)

長い話ではない。
ページ数にしてここだけで9ページほどの紙面だ。
国会でやりたいようにやっている人たちに
ここの話だけでもいいから読んでもらいたいものだと切に思う。
先生たちは何百人もいるから全員が首を縦に振ることは難しいのかもしれない。
でもはじめから議論するつもりがないというのはどういうことだろうか。
誰も説得できないから多数決する、
これはやはりおかしいことだと思う。
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会期の後半、作品の入れ替えがある長谷川利行展にふたたび出かけた。
水彩が少し増え、油彩は少し入れ替わっていた。
代表作は残っていて、良いものは何度見ても良いものだ。
「荒川風景」「少女」「大和屋かおる」「新宿風景」「ノアノアの少女」
どれもいいなぁ、とため息が出る。

帰宅したら郵便が届いていた。
このBlogをすべて読んでくださった方がいて、
お便りとともに一冊の写真の作品集を送ってくださった。
塩谷定好という、日本の写真黎明期に鳥取県で活躍した写真家のものだ。
とても素晴らしい作品だったので、ここにご紹介します。

塩谷定好-3

塩谷定好(しおたに ていこう)は1899年鳥取県に生まれ、
生涯そこを離れることなく山陰地方の自然を撮り続け、
1988年89歳で亡くなったとある。
そういう意味で植田正治と似ているけれど、
同じく鳥取から出ずに世界的な写真家になった植田は
同郷の先達である定好を、神さまのように尊敬していたということだ。
ベス単と呼ばれるコダック社製の小型のカメラで
身の回りにある風景、人、静物を、奇をてらうことなくありのままに撮り続けた。
その信念は
「自然を受け入れ、素直な表現を心がける」
「作品に詩情がなければ、対象物の複写に過ぎない」だったとある。

私はその名前を、いただいたこの作品集ではじめて知ったのだけれど
表紙の海辺に張り付くような民家の屋根の風景写真と
少々いかつい感じの写真家のセルフポートレートに見覚えがある。
日曜美術館のアートシーンか、数年前行った植田正治展で見たのだろうか。
一目見て忘れられない強い印象を持った。
絵も写真もそうだと思うけれど、
どこにでもある風景を撮影し(描い)て、
なお魅力あるものにするのはとても難しい。
塩谷定好の写真を見ていると、そのありきたりの風景がたまらなく愛おしく感じる。
後進に対して語った
「何気ない日常生活の中に美を見出すことが大切で、
 何も遠くに行って写すことはない。題材は身近にある。
 その中に美を見つけ出す感性を磨くことが重要である」という言葉が印象に残る。

ところで最近出た故安西水丸さんの新刊「鳥取が好きだ。(河出書房新社刊)」は、
氏が若い時から生涯にわたって敬愛し続けた鳥取県の民芸について綴られている。
民芸とは「用の美」に尽き、「不易流行」の原点であるという。
だから器を選ぶ基準は
「この器でカレーを食べたい」「このぐい呑みで、あの酒を飲もう」なのである。
話はちょっとずれたけれども、民芸運動の祖、柳宗悦が
天下の名品と言われる井戸茶碗を初めて見たときに
「なんと平凡な」と思わず口にしたという。
この「なんと平凡な」というため息にも似た言葉が鳥取の民芸に向けられたとき
塩谷定好の写真にも当てはまるような気がしてならない。
定好の写真は鳥取美術館博物館のサイトなどに出ているからそちらを見ていただくとして
一点、いや二点だけ、私がとても好きになった写真をアップしておきたい。
この風景、なんと平凡なのだろうか。
塩谷定好-1
塩谷定好-2

末尾にて、K様、ありがとうございました。
多摩川風景
(ガッシュ)

部活以外の時間はスマホにどっぷりはまり込んでいるセガレたち。
なんとかモニタを覗き込む時間短くするよう、話してみたり、
そこから遠ざけるよう様々な策を凝らしてみたりしたけれど、
どれも効き目がなく、ハードルは軽々と越えられてなすすべがない。
小さなモニタの中にはない、「こんな生き方や人生もあるのだ」と
知るきっかけにでもなればと、何冊かの本を渡そうと思って思案する。
人に本を贈るというのは難しくて、こちらがどんなにいい本だと思っていても
まるで響かないことは多い。
薦められる本、ましてや親が進める本なんて、誰だって読みたくはないのだ。
やはり自分で探して出会うのが一番だと思うけれど、
彼らにその出会いを期待していては一生やってこないかもしれない。
おじさんになった時に出会って一念発起、それで家を飛び出したらこれは悲劇だ。
そんなことを思いつつ、何冊か選んでみた。

立花隆「青春漂流」
この本は立花隆が田中角栄の汚職を追って追って、首相退陣に至った後に
「自分はこんな男のために人生の大切な時間を浪費してしまった」と、
その無念と再出発のために書いたものだ。
当時アウトサイダー的人生を歩んでいた一風変わった、
しかし確かな足取りで歩く若者たちを取材したルポルタージュになっている。
書いた頃の立花隆も若いが、取材された人も若い。
家具職人、自転車のフレームビルダー、猿回し師など、多彩な分野の職人たちは
10年後は日本を代表するその道のエキスパートになっている。
彼らの若き日の苦闘を活き活きと活写している。
中でも若き田崎真也さんがチンピラ上がりのバーテンダーから
単身フランスやイタリアに渡って徒歩でワイン蔵を回り、
一杯一杯の味を覚えながら世界一のソムリエの座を射るまでの話が忘れられない。

もう一冊は小沢征爾「ボクの音楽武者修行」
ラグビーに明け暮れる少年が音楽への道を世界に求め、
自らスポンサーを探してスクーターを手に入れ、貨物船に乗って欧州へ渡ってしまう。
スクータにまたがり、音楽の都で腕試しをしながら、
ついにはカラヤンの弟子になってニューヨークフィルの指揮をするまでになって帰国する、
まさに音楽武者修行の一代記だ。
これも私が若い日に読んで、若い血が沸き立った本だ。

セガレたちはふだん本など全く読まない生活をしているので、
この二冊を読むことさえも疑わしい。
薦めたい本はいくらでもあるけれど、最初に書いた通り、
本というのは読者を選び、さらに出会いのタイミングを選ぶ。
人生の少し先輩としては、いい本に出会って、いい旅をしてもらいたいと思う。
旅というのはどこかに出かけてゆくだけではない。
「若い日の本」としたけれど、今読んでも体が熱くなってくる、
自分にとってこの二冊はそんな本だ。

本を渡すとちょっと照れくさくなり、
多摩川へスケッチブックを持って出かけた。
画家のノート

以前からこの本が欲しかったのだけれど、
長く絶版になっていて、一昨年あたりにようやく、しかしひっそりと再版された。
(現在ふたたび絶版)
定価が元々が5000円、復刊も6500円近い。
古書価格も同じくらいする、かなり高価な本だ。
活字が小さい上に400ページもある大著で、
はたしてこれを今読み切れるかと腰が引けてもいた。
たまたまネットに1500円で出ていたので、少し迷って購入した。
なかなか買えない本が安く出ていると、「読めるかな」と思っていてもやはり買ってしまう。
初版1978年当時の5000円はかなり高い。
矢内原伊作著「ジャコメッティとともに」はいまだ再版されない稀覯本だけれど
これは似た内容の「ジャコメッティ」(みすず書房)が出ていてすでに読んでいた。
にもかかわらずこれも以前、1500円でネットに出ていたのを見つけて買った。
初版時は1300円。1969年であればこれもまたかなり高いはず。
40年、50年後の6000円や4000円はむしろ安くなっているのだろう。
安西水丸著「青の時代」も新装版ながら3000円で買った。
割安で買ったことを自慢しているのはどうもみっともない。
しかし買った身にはやはりうれしいもので、
届いた封筒を開くときの気分といったらない。

「画家のノート」、ちょっと拾い読みしてみたけれど、
こういう美術書というのは作家ではなくて研究者が書いたり訳したりする。
そういう文章はとても読みにくいことが多い。
もちろん読解力の問題もあるが、それはたとえば学校で英語の授業の時に読み上げた、
いわゆる直訳のような硬直した言い回しに近いように思える。
「翻訳された文章を読んでそれがよくわからなかったり意味が通りにくかったりしたら
それはほとんどの場合、翻訳がおかしいのだ」と、
キャパの自伝を苦労して翻訳した沢木耕太郎さんが書いていた。
私はこちらの説を採る。

「画家のノート」冒頭は聞き書きしている執筆者(名前は書いていない)
の独白にはじまっていて、ここはとても読みにくそうだ。
しかし文章がマティスの言葉にうつると
「絵は1日の仕事で疲れ切った現代人の頭脳にとっての鎮静剤であらねばならない」
とじつに明快だ。
描く画家は明快な画を描いているつもりだったけれど、
ルノワールにマティスの絵は、よくわからなかったようである。
Blogを書き始めた頃にも書いたけれど、
そういうことを前提にルノワールはこうも言っている。
「私にはマティスの画はよくわからない。
 しかし、私に理解できないからと言って、
 それがマティスの作品の価値とは一切関係はない」
この言葉に以前、私はとても感動した。
さて、ようやく手に入れたこの本、おもしろければいいな。
読みかけの本があるので、順番はその後になる。
「ピカソの陶器」

仕事場近くの老舗古書店店頭には、1冊100円の文庫とともに
美術展カタログが300円ほどで並んでいる。
若い世代は本を読まなくなったと言われているが、
ここでも古書を漁っているのはミドル以上の人ばかり。
店も最近は、高く売れそうな本はネット販売に出したがるので、
店自体の魅力も落ちている。
そんなある日、ピカソの函入りの豪華作品集、
「ピカソの陶器」がわずか300円で並んでいた。
先日TVで「私の履歴書」に出演していたニトリの社長が
自宅で話しているその肩越しに、ピカソの女性を形どった陶器が
棚の中で見え隠れしていた。
陳列の仕方はあまり趣味良くは見えなかったけれど、
意外な大きさと造形の面白さが印象に残って、「欲しいなぁ」と思ったりした。
本自体はずいぶん重いし場所もとるので、
高ければまず買わない本だけれど、安さに魅かれてこれを購入。
持ち帰って開いてみれば、これは素晴らしいピカソの陶芸作品の数々。
ピカソ晩年の7年余りを陶芸制作に没頭した頃の膨大な作品が収められている。
絵画はもちろん、彫刻にも革新的な作品を残したピカソは
陶芸でも素晴らしく自由な造形を試みている。

その頃、同じく晩年にあった日本の北大路魯山人が
欧州旅行の途次、ピカソを訪ねている。
パリでは、今でいう三ツ星クラスの家鴨料理で有名なレストランにて
看板料理を食したが、翁の口には合わなかったようである。
再度火の通し具合など細かく指示して出させ、
日本より持ち込んだ醤油と粉わさびでやっと満足した。
ピカソを訪ねたのも画家が最近陶芸を始めたと聞いたからで
そこでもやはり器は気にくわなかったようだ。
陶器にはピカソの原色の絵付けが施され、彫刻のような造形が試みらている。
作品としては度胆を抜く面白さがあるものの、
魯山人にはあのような「料理の造形」を殺す皿など
悪趣味以外の何物でもないと映ったのだろう。
著書に掲載されたピカソとの記念写真には、ピカソのいつもの笑顔とは対照的に
全くつまらなさそうな翁の苦々しい表情がおかしい。

ピカソは陶器に絵付けと彫刻的な造形の両方の面白さを発見したのだろう。
あまりの自由さに見ている方が笑顔さえ出てくる。
スタンダードなフォルムの壺をぐっとひねるとまさに「鳩」そのものになり、
水差しの絵付けには壺の絵を描いたりしている。
丼に茶碗の絵を描くようなものだ。
いくつもの幾何学的な器をくっつけてできた抽象彫刻のようなフォルムは
女性になったり動物になったりする。
絵付けされた皿と思いきや、皿に乗った目玉焼きやフォークや魚は
粘土で作られたものだったりする。
ピカソの造形の自由さを堪能できる楽しい一冊だけれど、
訳がひどいのか元の文章が悪いのか、テキストはひどくて読めたものではない。

ピカソの陶器

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