東京湾をゆく船-6(ガッシュ)


ここで何度か書いている宮本常一著「忘れられた日本人」は冒頭隠岐を訪ね、
村に伝わる古文書の存在をたずねるところから始まっている。
今とは違い、取材で訪れた村で出会った重要な古文書はすべて手で書き写した。

その時、限られた時間内で書き写すことが難しいと判断した宮本常一は
村の区長にすこしの間その文書を貸してもらえないかと頼む。
すると、「自分の一存で決められぬ」と区長は古文書を持って、
村人の意見を聞きに出かけていった。
その後、区長が帰ってこないのをじりじりして待っていた宮本常一は
とうとう話し合いの場へと自ら出かけてゆく。
するとそこでは村人らの話し合いが皆の納得のゆくまで、
いつ終わるともしれず延々と続けられていた。
そこでの話し合いは理詰めで相手を納得させるのではなく、
ひとりひとりがそれに関係のある、
自分の知っている限りの体験や事例を挙げてゆくのである。
話すことがなくなったら帰ってもいいし、眠くなったら寝てもいい。
気の長い話で、これでは時間がかかっても無理はないと宮本は思う。

このような寄り合いによる決め方はここだけでなく、
旅の次の村でもそうだった。
次の村ではさらに遠方へ船を出し、村の総代が紋付き袴でその船に乗ってやってくる。
同じように集まった全員が納得のゆくまで何日でも話し合いは続けられた。
話に出たあることがきっかけで話題は別の方向へ飛んでゆくことがあるが、
そういうことも話し合いでは重要なことなのだと宮本常一は思う。
いっぽう、自分のひと言が村の人にたいへんな迷惑をかけていることがわかってくる。

今日の論議のように理詰めでは、話し合いはやがて収拾のつかないことになってしまう。
自分の知っていること、体験によるたとえ話をすればわかりやすい。
反対意見が出ればしばらくそのままにしておき、
賛成の意見が出ればまたそのままにして冷却期間をおき、みんなで考え合う。
最後にみんなの長に決をとらせるが、それで気まずい思いをするものは誰もいないという。
宮本常一が「忘れられた日本人」の最初に書いたのは、この寄り合いの情景だった。
それは宮本の目の底に染み入ったという。

今の社会は意思決定のスピードが大事だと、ことあるたびに言われる。
上の「寄り合い」による話し合いは
主に京都、大阪以西の西日本で古くから行われていた。
一見おそろしく気の長い「寄り合いの決め方」だけれど、
どんなに長くとも3日あれば決まり、話を尽くしただけに決定は何より大事で皆が従う。
そして大事なことは、全員が納得して誰も気まずい思いをしないことのように思われる。
本書の出版は1960年、取材は1940〜50年代のことで、今から70〜80年前のことだ。
この話し合いをそのまま今の社会には当てはめられないかもしれないけれど、
現代はこれより優れた方法で物事を決められているだろうか。

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チェルノブイリの祈り

日本ではノーベル賞の季節になると、
何年経っても毎回話題になるのは村上春樹の当落だけれど
昨年受賞したのは初のジャーナリストだった。
スベトラーナ・アレクシエービッチというベラルーシの作家で、
旧ソ連下で育った女性である。
旧ソ連下でアフガニスタン侵攻に従軍した人々や家族の証言を集め、
父の母国ベラルーシで起こったチェルノブイリ原子力発電所事故でも証言を集めたのは
「今集めねば」という内なる声に追い立てられてのことだったという。
本書執筆以前にもペンを折られ、カメラを破壊されたジャーナリストは大勢いたが
それでもやはり命をかけた取材と執筆であったはずで、
『チェルノブイリの祈り』は受賞にふさわしい労作だと思う。

筆者は聞き書きに徹している。
被災した人たちの声の一つ一つは、命の尊さを痛いほどに伝えている。
人間の尊厳があらわになった瞬間を全てのページに塗り込められた壁のような本だ。
日本はチェルノブイリ事故について、
あれは社会主義の国で起こったからあれほど悲惨な事故になったのだという見方が今も強い。
筆者が十数年前に来日した時、どんな地震にも大丈夫だと日本人に聞かされたが
その後、フクシマの事故は起こってしまっている。
たとえば一人の猟師がこう言っている。
「いいか、たくさんの住人が被災したのに、誰も責任をとっていないんだ。
 あの体制では、だれが悪かったのか決めるのは、とても難しいんだよ」
これは日本とは違う国のことだろうか。
日本では水没により電源が失われたことによる、
事故の最大の責任者は追求されることなく現世から既に退場し、
どういうわけか今は英雄のように扱われている。

「フクシマの祈り」もいずれ綴られるのだろうか。
田園や海辺で自然から直接の恵みを得て生きる、
穏やかで平和な暮らしは都会に暮らす現代人には、実感としての想像は難しい。
それを失った人々の素朴な声は悲しみに満ちているにもかかわらず、
ときに歌のようであり、詩のようであり、そして祈りのようでもある。
文化や近代化の歩みが日本よりはうんと遅い、ロシアや東欧の農村地帯には
事故が起こらなければ、今も100年前と同じ暮らしが営まれていたはずだった。
証言は個人の声を拾えば事件になるが、ある数を超えると歴史になる。
ストックホルムがこの作家の仕事を選んだことは幾重にも意味がある。

ところで、この本は受賞のすでに10年前に日本で翻訳出版されている。
たったひとりで運営する群像社という零細出版社で、受賞後は古書価格が高騰していた。
通常ならここでやっと商業ベースに乗せられるはずが
ノーベル賞受賞後契約は更新されず、増刷は認められなかった。
さぞ無念かと思いきや、その後のオーナーのコメントがふるっている。
「契約は切れてしまったので増刷はできなくなったけれど
 ほかの出版社からきっと出されるはずで、それを読んでいただければ、
 我が国で細々ながら最初に出版した自分としてはうれしい」

日本の原発再稼働について、司法の判断はわかれているという。
ウクライナでも依然、原発は重要な電源資源として稼働している。
あといくつ事故が起これば優先するものが変わるのか。
頭で呻吟するより、この本を読めば悩むこともなかろうにと思う。
本は現在、岩波書店の現代文庫で手軽に読むことができる。
妖怪自動車
「妖怪自動車」(今井科学 当時200円)の箱絵

水木しげるさんは戦争で九死に一生を得てまんが家となり
今日までの93歳、よく生きてくださった。
高齢ではあったが先日もNHKで
水木さんに密着したドキュメント番組が放映されたばかりだったので、
まだまだお元気だなと思っていた矢先のことだった。
考えてみれば、陽の当たらない世界を描き続けたにもかかわらず、
私たちが子供の頃から現在に至るまで、ずっと陽が当たっておられたような気がする。
つまりいつも第一線にいたということだ。
1970年前後の少年マガジンを開いて驚くのは、その連載作品のラインナップだ。
巨人の星、あしたのジョー、タイガーマスク(すべて原作者が同じというのもすごい)、
そしてゲゲゲの鬼太郎だ(鬼太郎の連載は1969年まで)。
今もおもしろいまんがは多いのだろうけど、この連載がもし今あったとしたら、
やはり100万部くらい売れたのではないだろうかと思ってしまう。

芸術でも文学でもオカルティックなものを素材にしたものは多い。
それにペーソスが加わって、誰もがしみじみと共感できる水木ワールドは
大人から子供まで惹き寄せることのできた世界無比のものだった。
最近その短編集を読み返していて、
ストーリーの中にふと挟み込まれる古びた場末の風景の不思議な構図が気になって、
今日も私のバッグの中にはその一冊が入っていたのだった。
幕間ともとれる舞台道具のはずだけれど、それにしてはやけに濃密な一隅だ。
その影響は弟子、というかアシスタントだった
つげ義春氏や池上遼一氏の作品にも出ているのではないかと思う。
また、妖怪や幽霊というのは存在するのか、と問うより、
それは民俗学なのだと思ってあらためて漫画を読むと、
日本人というのは想像力豊かな、やさしい恐がりやなのだとつくづく思う。

水木さんは妖怪ものを描いてようやく貧乏から脱したが、
この時代の漫画家は奥さんの支えがあってこその人が多く、ドラマ化されたものも多い。
なかでも最大のヒットとなったのが「ゲゲゲの女房」だろう。
「ゲゲゲとレレレとラララ」という漫画家の奥さんどうしの対談があったが、
その夫の漫画家がすぐにわかるくらい、この時代の漫画家は愛された。
後年は自分自身や仲間の実体験から描き起こした戦記物が多く、
なんどもくり返し戦争体験を描き、話し、書いた。
軍隊生活で自分くらい殴られた兵隊はいないといつも語っておられたが
自らに降ったゲンコツの嵐をまんがの中では「ビビビ」と表現されていたのが
かえって哀れをさそった。
私の好きな作品は妖怪ものより、
市井の情けない人々をペーソスあふれるタッチで描いた短編や
まんがではないが、同じく筑摩から出ている「ラバウル戦記」なども好きだ。
(ただし、読んでいない作品のほうがはるかに多い)
敗戦直後に集められた収容所でクレパスで描かれた鮮やかなスケッチや、
戦後、驚異的な記憶力で描かれた戦時中の風景が忘れがたい。
歴史をすくう指の間からこぼれ落ちたような、
こういうアウトサイドのディテールにこそ、真実が見え隠れしているものだ。
もうこういう作家は出てこないだろう。

上の写真は、私が宝物にしているゲゲゲの鬼太郎のプラモデルの箱絵で、
1969年頃、水木作品で最初のアニメ放送がされた頃のものだ。
中身があれば今ではかなりのお宝になるはずだけれど、
残念ながらパッケージのふただけである。
子供にとってはこの画だけでもどれだけ想像力を膨らませたかしれない。
当時モノクロで放送されていた鬼太郎の「幽霊電車」は本当に怖かった(はず)。
夕方スケッチの帰りに涼みがてら、近所の図書館へ寄った。
しばらく雑誌のページを繰って帰ろうとしたとき、
出口付近にある処分本の棚に目がとまる。
借りる人が少ない古い書籍は、新刊に場所を譲るため処分されることがある。
これは欧米でも同じで、以前ネットで蒐集した海外の古い絵本も
手ごろな価格が付いていたものは「Public school library copy.」
「 exlibrary 」など、図書館落ちの標記があるものが多かった。
どこかのBlogで、処分本の中に長谷川利行の絶版書
「どんとせえ」を見つけたと書いていた人がいたけれど、
そんな幸運はめったにあることじゃないだろう。
ところが今日その棚に私は、舟越保武の「巨岩と花びら」を見つけた。
現在も発刊されている文庫ではあるが、古書店ではあまり見ない本だし、なにより名随筆だ。
とくに同郷で幼なじみでもある松本竣介との友情を綴った文章がすばらしい。

絵描きの文章というのは、小説家のそれより
文体、個性の差違がはっきりしているように思う。
文章を売る必要もなく、頼まれて書くだけだから人物がもろに出てくる。
私が好きなのはほかに中川一政、野見山暁治、
そしてしゃべったものを人が書き起こしたものだけれど熊谷守一のもの。
舟越保武はひと言で言えば率直・平易な文章だ。
松本竣介を偲んだ文章は若い日に死に別れた友人を想って痛切である。

夭折した長女の洋子ちゃんがとぼとぼと先を歩いているのに、やがて竣介が追いつく。
竣介は洋子ちゃんと手をつなぎ、時折肩車をして、
父と娘はキャッキャとはしゃぎながら歩いて行く。
二人が歩いている先に、少し早く亡くなった詩人の小熊秀雄が歩いている。
気取った歩き方をしているので、やがて二人は彼にも追いつく。
暗い冥途の道の三人連れが、そこだけ淡い光が当たっているように見える。
あじさい色のように、ほのかに明るい光の輪の中を歩いて行く、
この三人の後姿を想って私は悲しみを押さえたい。

そう綴った舟越保武そのひとも、今はその光の中にいる。
この文章を読むと、かつて生きていた人たちの長かったり短かった一生を想って
人の生というのは美しいものだなぁと想うのである。

巨岩と花びら
赤塚不二夫120%

2008年に亡くなった漫画家の赤塚不二夫、
今年は生誕80年にあたるそうだ。
自伝がかつてNHKでドラマ化されたことがあった。
その少し前に藤子不二雄の自伝もまたNHKでドラマ化されていて、
当時はトキワ荘を舞台にした日本漫画界「夜明け前」にスポットライトが当たっていた時代だった。
どちらも感動的で、欠かさず見ていた。
歴史のおもしろいところは、いろんな分野の天才というのはしばしば、
ある時代の同じ時期、同じ場所に登場することだ。
出久根達郎さんのエッセイ(「風がページをめくると」ちくま文庫)で紹介されていた、
赤塚不二夫の少年時代の話がとても印象的だった。

赤塚さんはあるとき、友達と連れだって火事を見物に出かける。
彼のクラスには体の不自由な子がいた。
そしてその子も連れて、火事場へ急ぐのである。
『早く歩け、このバカやろう』なんて言いながらも、置いてゆかずにみんなで出かける。
「帰りはみんなでおんぶして帰ってきたよ。交替で。
「おかしいのは、火災現場に行ったらもう火事が消えていたんだ。
 『おまえのせいで、火事消えてるよ』『ごめん』って言ってね。
 帰りは山道を通ってきたんだけど、ツツジが満開だった。
 それで、おんぶして歩いていると、そいつが泣くんだ。
 『オカアチャーン』って。
 すると僕たち、ツツジの花を折って持たせてやって、『ほら、きれいだぞ』って言う。
 するとしばらくはそれを見てるんだけど、また『オカアチャーン』って泣くんだ。」
出久根さんは、赤塚漫画にはこの奇妙なリリシズムが流れている、と書いている。
「昔はそうやって、みんな一緒に生きていたのだ。
 どこにでも連れて行くし、一緒に遊ぶんだもの。
 そこなんだよ、大事なのは」と赤塚さんは言う。

赤塚さんはそこで放送禁止用語、言葉の自主規制について書いているのだけれど、
語る内容はその範囲にとどまらず、人間にとって最も大切なことにつながっていると思う。
大人になると、いろんな「事情」が生まれ、意図せず本人の背中にくっついてくる。
それは家庭だったり地位だったり、多くは金銭的なものだったり、
今の言葉で言えば「リスク」と言ったらいいだろうか。
それが必要以上に大きく見えるもので、
やがて友人や仲間が見捨てられて「やむなし」という理由になったりする。
「少年の心を持った人」という言葉はよく聞くけれど、
赤塚さんは生涯、どんな事情も関係なく人とつき合ったのではなかったか。
つまりほんとうの意味で「少年の心を持った人」だったという気がする。

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