多摩川風景
(ガッシュ)

部活以外の時間はスマホにどっぷりはまり込んでいるセガレたち。
なんとかモニタを覗き込む時間短くするよう、話してみたり、
そこから遠ざけるよう様々な策を凝らしてみたりしたけれど、
どれも効き目がなく、ハードルは軽々と越えられてなすすべがない。
小さなモニタの中にはない、「こんな生き方や人生もあるのだ」と
知るきっかけにでもなればと、何冊かの本を渡そうと思って思案する。
人に本を贈るというのは難しくて、こちらがどんなにいい本だと思っていても
まるで響かないことは多い。
薦められる本、ましてや親が進める本なんて、誰だって読みたくはないのだ。
やはり自分で探して出会うのが一番だと思うけれど、
彼らにその出会いを期待していては一生やってこないかもしれない。
おじさんになった時に出会って一念発起、それで家を飛び出したらこれは悲劇だ。
そんなことを思いつつ、何冊か選んでみた。

立花隆「青春漂流」
この本は立花隆が田中角栄の汚職を追って追って、首相退陣に至った後に
「自分はこんな男のために人生の大切な時間を浪費してしまった」と、
その無念と再出発のために書いたものだ。
当時アウトサイダー的人生を歩んでいた一風変わった、
しかし確かな足取りで歩く若者たちを取材したルポルタージュになっている。
書いた頃の立花隆も若いが、取材された人も若い。
家具職人、自転車のフレームビルダー、猿回し師など、多彩な分野の職人たちは
10年後は日本を代表するその道のエキスパートになっている。
彼らの若き日の苦闘を活き活きと活写している。
中でも若き田崎真也さんがチンピラ上がりのバーテンダーから
単身フランスやイタリアに渡って徒歩でワイン蔵を回り、
一杯一杯の味を覚えながら世界一のソムリエの座を射るまでの話が忘れられない。

もう一冊は小沢征爾「ボクの音楽武者修行」
ラグビーに明け暮れる少年が音楽への道を世界に求め、
自らスポンサーを探してスクーターを手に入れ、貨物船に乗って欧州へ渡ってしまう。
スクータにまたがり、音楽の都で腕試しをしながら、
ついにはカラヤンの弟子になってニューヨークフィルの指揮をするまでになって帰国する、
まさに音楽武者修行の一代記だ。
これも私が若い日に読んで、若い血が沸き立った本だ。

セガレたちはふだん本など全く読まない生活をしているので、
この二冊を読むことさえも疑わしい。
薦めたい本はいくらでもあるけれど、最初に書いた通り、
本というのは読者を選び、さらに出会いのタイミングを選ぶ。
人生の少し先輩としては、いい本に出会って、いい旅をしてもらいたいと思う。
旅というのはどこかに出かけてゆくだけではない。
「若い日の本」としたけれど、今読んでも体が熱くなってくる、
自分にとってこの二冊はそんな本だ。

本を渡すとちょっと照れくさくなり、
多摩川へスケッチブックを持って出かけた。
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画家のノート

以前からこの本が欲しかったのだけれど、
長く絶版になっていて、一昨年あたりにようやく、しかしひっそりと再版された。
(現在ふたたび絶版)
定価が元々が5000円、復刊も6500円近い。
古書価格も同じくらいする、かなり高価な本だ。
活字が小さい上に400ページもある大著で、
はたしてこれを今読み切れるかと腰が引けてもいた。
たまたまネットに1500円で出ていたので、少し迷って購入した。
なかなか買えない本が安く出ていると、「読めるかな」と思っていてもやはり買ってしまう。
初版1978年当時の5000円はかなり高い。
矢内原伊作著「ジャコメッティとともに」はいまだ再版されない稀覯本だけれど
これは似た内容の「ジャコメッティ」(みすず書房)が出ていてすでに読んでいた。
にもかかわらずこれも以前、1500円でネットに出ていたのを見つけて買った。
初版時は1300円。1969年であればこれもまたかなり高いはず。
40年、50年後の6000円や4000円はむしろ安くなっているのだろう。
安西水丸著「青の時代」も新装版ながら3000円で買った。
割安で買ったことを自慢しているのはどうもみっともない。
しかし買った身にはやはりうれしいもので、
届いた封筒を開くときの気分といったらない。

「画家のノート」、ちょっと拾い読みしてみたけれど、
こういう美術書というのは作家ではなくて研究者が書いたり訳したりする。
そういう文章はとても読みにくいことが多い。
もちろん読解力の問題もあるが、それはたとえば学校で英語の授業の時に読み上げた、
いわゆる直訳のような硬直した言い回しに近いように思える。
「翻訳された文章を読んでそれがよくわからなかったり意味が通りにくかったりしたら
それはほとんどの場合、翻訳がおかしいのだ」と、
キャパの自伝を苦労して翻訳した沢木耕太郎さんが書いていた。
私はこちらの説を採る。

「画家のノート」冒頭は聞き書きしている執筆者(名前は書いていない)
の独白にはじまっていて、ここはとても読みにくそうだ。
しかし文章がマティスの言葉にうつると
「絵は1日の仕事で疲れ切った現代人の頭脳にとっての鎮静剤であらねばならない」
とじつに明快だ。
描く画家は明快な画を描いているつもりだったけれど、
ルノワールにマティスの絵は、よくわからなかったようである。
Blogを書き始めた頃にも書いたけれど、
そういうことを前提にルノワールはこうも言っている。
「私にはマティスの画はよくわからない。
 しかし、私に理解できないからと言って、
 それがマティスの作品の価値とは一切関係はない」
この言葉に以前、私はとても感動した。
さて、ようやく手に入れたこの本、おもしろければいいな。
読みかけの本があるので、順番はその後になる。
「ピカソの陶器」

仕事場近くの老舗古書店店頭には、1冊100円の文庫とともに
美術展カタログが300円ほどで並んでいる。
若い世代は本を読まなくなったと言われているが、
ここでも古書を漁っているのはミドル以上の人ばかり。
店も最近は、高く売れそうな本はネット販売に出したがるので、
店自体の魅力も落ちている。
そんなある日、ピカソの函入りの豪華作品集、
「ピカソの陶器」がわずか300円で並んでいた。
先日TVで「私の履歴書」に出演していたニトリの社長が
自宅で話しているその肩越しに、ピカソの女性を形どった陶器が
棚の中で見え隠れしていた。
陳列の仕方はあまり趣味良くは見えなかったけれど、
意外な大きさと造形の面白さが印象に残って、「欲しいなぁ」と思ったりした。
本自体はずいぶん重いし場所もとるので、
高ければまず買わない本だけれど、安さに魅かれてこれを購入。
持ち帰って開いてみれば、これは素晴らしいピカソの陶芸作品の数々。
ピカソ晩年の7年余りを陶芸制作に没頭した頃の膨大な作品が収められている。
絵画はもちろん、彫刻にも革新的な作品を残したピカソは
陶芸でも素晴らしく自由な造形を試みている。

その頃、同じく晩年にあった日本の北大路魯山人が
欧州旅行の途次、ピカソを訪ねている。
パリでは、今でいう三ツ星クラスの家鴨料理で有名なレストランにて
看板料理を食したが、翁の口には合わなかったようである。
再度火の通し具合など細かく指示して出させ、
日本より持ち込んだ醤油と粉わさびでやっと満足した。
ピカソを訪ねたのも画家が最近陶芸を始めたと聞いたからで
そこでもやはり器は気にくわなかったようだ。
陶器にはピカソの原色の絵付けが施され、彫刻のような造形が試みらている。
作品としては度胆を抜く面白さがあるものの、
魯山人にはあのような「料理の造形」を殺す皿など
悪趣味以外の何物でもないと映ったのだろう。
著書に掲載されたピカソとの記念写真には、ピカソのいつもの笑顔とは対照的に
全くつまらなさそうな翁の苦々しい表情がおかしい。

ピカソは陶器に絵付けと彫刻的な造形の両方の面白さを発見したのだろう。
あまりの自由さに見ている方が笑顔さえ出てくる。
スタンダードなフォルムの壺をぐっとひねるとまさに「鳩」そのものになり、
水差しの絵付けには壺の絵を描いたりしている。
丼に茶碗の絵を描くようなものだ。
いくつもの幾何学的な器をくっつけてできた抽象彫刻のようなフォルムは
女性になったり動物になったりする。
絵付けされた皿と思いきや、皿に乗った目玉焼きやフォークや魚は
粘土で作られたものだったりする。
ピカソの造形の自由さを堪能できる楽しい一冊だけれど、
訳がひどいのか元の文章が悪いのか、テキストはひどくて読めたものではない。

ピカソの陶器
東京湾をゆく船-6(ガッシュ)


ここで何度か書いている宮本常一著「忘れられた日本人」は冒頭隠岐を訪ね、
村に伝わる古文書の存在をたずねるところから始まっている。
今とは違い、取材で訪れた村で出会った重要な古文書はすべて手で書き写した。

その時、限られた時間内で書き写すことが難しいと判断した宮本常一は
村の区長にすこしの間その文書を貸してもらえないかと頼む。
すると、「自分の一存で決められぬ」と区長は古文書を持って、
村人の意見を聞きに出かけていった。
その後、区長が帰ってこないのをじりじりして待っていた宮本常一は
とうとう話し合いの場へと自ら出かけてゆく。
するとそこでは村人らの話し合いが皆の納得のゆくまで、
いつ終わるともしれず延々と続けられていた。
そこでの話し合いは理詰めで相手を納得させるのではなく、
ひとりひとりがそれに関係のある、
自分の知っている限りの体験や事例を挙げてゆくのである。
話すことがなくなったら帰ってもいいし、眠くなったら寝てもいい。
気の長い話で、これでは時間がかかっても無理はないと宮本は思う。

このような寄り合いによる決め方はここだけでなく、
旅の次の村でもそうだった。
次の村ではさらに遠方へ船を出し、村の総代が紋付き袴でその船に乗ってやってくる。
同じように集まった全員が納得のゆくまで何日でも話し合いは続けられた。
話に出たあることがきっかけで話題は別の方向へ飛んでゆくことがあるが、
そういうことも話し合いでは重要なことなのだと宮本常一は思う。
いっぽう、自分のひと言が村の人にたいへんな迷惑をかけていることがわかってくる。

今日の論議のように理詰めでは、話し合いはやがて収拾のつかないことになってしまう。
自分の知っていること、体験によるたとえ話をすればわかりやすい。
反対意見が出ればしばらくそのままにしておき、
賛成の意見が出ればまたそのままにして冷却期間をおき、みんなで考え合う。
最後にみんなの長に決をとらせるが、それで気まずい思いをするものは誰もいないという。
宮本常一が「忘れられた日本人」の最初に書いたのは、この寄り合いの情景だった。
それは宮本の目の底に染み入ったという。

今の社会は意思決定のスピードが大事だと、ことあるたびに言われる。
上の「寄り合い」による話し合いは
主に京都、大阪以西の西日本で古くから行われていた。
一見おそろしく気の長い「寄り合いの決め方」だけれど、
どんなに長くとも3日あれば決まり、話を尽くしただけに決定は何より大事で皆が従う。
そして大事なことは、全員が納得して誰も気まずい思いをしないことのように思われる。
本書の出版は1960年、取材は1940〜50年代のことで、今から70〜80年前のことだ。
この話し合いをそのまま今の社会には当てはめられないかもしれないけれど、
現代はこれより優れた方法で物事を決められているだろうか。

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チェルノブイリの祈り

日本ではノーベル賞の季節になると、
何年経っても毎回話題になるのは村上春樹の当落だけれど
昨年受賞したのは初のジャーナリストだった。
スベトラーナ・アレクシエービッチというベラルーシの作家で、
旧ソ連下で育った女性である。
旧ソ連下でアフガニスタン侵攻に従軍した人々や家族の証言を集め、
父の母国ベラルーシで起こったチェルノブイリ原子力発電所事故でも証言を集めたのは
「今集めねば」という内なる声に追い立てられてのことだったという。
本書執筆以前にもペンを折られ、カメラを破壊されたジャーナリストは大勢いたが
それでもやはり命をかけた取材と執筆であったはずで、
『チェルノブイリの祈り』は受賞にふさわしい労作だと思う。

筆者は聞き書きに徹している。
被災した人たちの声の一つ一つは、命の尊さを痛いほどに伝えている。
人間の尊厳があらわになった瞬間を全てのページに塗り込められた壁のような本だ。
日本はチェルノブイリ事故について、
あれは社会主義の国で起こったからあれほど悲惨な事故になったのだという見方が今も強い。
筆者が十数年前に来日した時、どんな地震にも大丈夫だと日本人に聞かされたが
その後、フクシマの事故は起こってしまっている。
たとえば一人の猟師がこう言っている。
「いいか、たくさんの住人が被災したのに、誰も責任をとっていないんだ。
 あの体制では、だれが悪かったのか決めるのは、とても難しいんだよ」
これは日本とは違う国のことだろうか。
日本では水没により電源が失われたことによる、
事故の最大の責任者は追求されることなく現世から既に退場し、
どういうわけか今は英雄のように扱われている。

「フクシマの祈り」もいずれ綴られるのだろうか。
田園や海辺で自然から直接の恵みを得て生きる、
穏やかで平和な暮らしは都会に暮らす現代人には、実感としての想像は難しい。
それを失った人々の素朴な声は悲しみに満ちているにもかかわらず、
ときに歌のようであり、詩のようであり、そして祈りのようでもある。
文化や近代化の歩みが日本よりはうんと遅い、ロシアや東欧の農村地帯には
事故が起こらなければ、今も100年前と同じ暮らしが営まれていたはずだった。
証言は個人の声を拾えば事件になるが、ある数を超えると歴史になる。
ストックホルムがこの作家の仕事を選んだことは幾重にも意味がある。

ところで、この本は受賞のすでに10年前に日本で翻訳出版されている。
たったひとりで運営する群像社という零細出版社で、受賞後は古書価格が高騰していた。
通常ならここでやっと商業ベースに乗せられるはずが
ノーベル賞受賞後契約は更新されず、増刷は認められなかった。
さぞ無念かと思いきや、その後のオーナーのコメントがふるっている。
「契約は切れてしまったので増刷はできなくなったけれど
 ほかの出版社からきっと出されるはずで、それを読んでいただければ、
 我が国で細々ながら最初に出版した自分としてはうれしい」

日本の原発再稼働について、司法の判断はわかれているという。
ウクライナでも依然、原発は重要な電源資源として稼働している。
あといくつ事故が起これば優先するものが変わるのか。
頭で呻吟するより、この本を読めば悩むこともなかろうにと思う。
本は現在、岩波書店の現代文庫で手軽に読むことができる。

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