亡き竹中先生を偲ぶ会はずいぶん先のことに思っていたが、
あっという間にその日はやってきて、懐かしい面々との再会とともに時は流れ去った。
当たり前のことだけれど、若いOBというのも大勢いて、
自分たちはすっかり古参衆になっていたのも時の流れを感じる。
会は先生の教え子が集まって練っただけあって、とにかくすばらしいものだった。
講義のビデオやうまく編集されたフォトムービーも忘れがたかった。
遠くにいて何もお手伝いできなかったことが心苦しい。
実行委員の方々にはあらためてお礼を言わせていただきたい。
本当にありがとうございました。

会場の展示品の中で目をひいたのが、先生の個人アルバムだった。
どのページも空間という空間は、写真とイラスト、言葉に埋め尽くされている。
青年竹中保の生気の爆発、我々と変わらぬこんな若いエネルギーがあったのか。
しかし最も目をひいたのは、丁寧に整理された先生の奥様のアルバムだった。
あとで確認したら、これも先生の遺品の中にあったものだそうだ。
若い日の輝くような美しさが忘れがたい。
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昨年竹中先生の訃報について最初に書いてから、もうすぐ一年が経とうとしている。
今に至っても、ひと月に何人かの後輩やら同期生からメールやコメントをいただいたりする。
皆初めて知ったのであり、その驚きは私が訃報を受け取った時と何ら変わることはない。
つくづく思うのだけれど、画や彫刻、デザインを志した頃に出会った先生の言葉、
物腰や話し方にいたるまで尊いものとして皆が鮮明に記憶しているのは、
それはすなわち、その頃の生徒たち自身の制作に対する姿勢そのものでもあったということだ。
そのまま一流大学へ進めば明るい未来がすぐにも描けるのにと思う、学科にも秀でた優秀な生徒もいれば
私のように他にどの道にも進みようがなく、あとはバイト先の調理師にでもなるしかなさそうな
まさに土俵際の落第生もいた。
そこにいた生徒たちはみんな(今から思えば)幼いながら「もの創りの道に入るために」と考え、
まずは最難関の門をくぐろうと決めた生徒たちだった。
志通りか、志届かず私のようにG.デザインの仕事に就いた者も多い。
バブル期も就職氷河期も関係はない、将来食えなくとも志望する学生は今もいる。
著名なアーティストとして名をなすことを夢見ているものもいるかもしれない。
現実的には、将来絵描きや彫刻などファインアートに進む生徒というのは
ほとんどいないことも先生は予想しておられたはずだ。
ものの見方を学ぶということは、どんな世界にでも通用する力になる。
だから短い指導期間であってもでもそれだけは身につけて送り出せるようにと、
指導はある意味、たいへん厳しかったが卒業生は後々、その教えの価値を実感することになった。
人はけっきょく一人で生きてゆかねばならないし、自分で解決していかなければならない。
その際指針となるコンパスをこの頃に持てたということは、
私をはじめ未熟な多くの若者にとって幸いであったろうと思う。

先生は「若い時には、何かに向かってひたむきになることが何より大切だ」といわれた。
その「ひたむき」の意味をじっくりかみしめたい。
それはどんな世界でも構わないし、本当は誰かに師事する必要もない。
本当に力のある人間は誰からでも、何からでも良いところを学ぶ。
どんな時代でもどんな世界でも、やる奴はやるし、やらない奴はどんなお膳立てをしてもやらないものだ。
そういうことも先生は教えてくださった。
毎年新たに大勢のひたむきで自己主張の強い生徒たちを、
一年間引っ張ってこられた牽引力は並大抵ではなかったと思う。

10月8日、先生が亡くなって一年が経つ。
竹中先生の遺徳を偲んで。
研究所卒業生のTさんから丁寧な手紙と先生に関する資料をいただき、
故竹中先生がBlogをやっておられたことがわかった。
先生にメールでお便りすると、返事に慣れないキーボードを使わせることになる、
そう思ってあえて便せんにペン書きしたのだが、杞憂だった、というか誤りだった。
結果として手紙する回数が減ってしまったことが悔やまれる。
メールならもっと頻繁に先生と会話ができたはずだ。
Blog上には我々が受けた講義内容がほぼ再録されており、
同じ内容(=伝えたい大事なこと)が繰り返し出てくる。
卒業生にとってはいずれもかつて知ったる内容ばかりだ。
更新が毎週の時もあるが、半年の時間が過ぎていることもある。
70歳になる完全アナログ世代の人が、どうしてあれほどの文量をキーで打てたのか。。
自らの言葉があり、伝えたい事があふれるほどあったのだろう。
しかし行間ににじみ出ているのは、
美術を志す多くの人とコミュニケーションをとりたい、
という意思だったように感じる。

Blog、Twitter、Facebook、ホームページ、
いずれこれらは世界の人口を超える数になるだろう。
いつも思うのだが、ブログ主の亡き後、
これらのサイトは削除されることはあるのだろうか。
先生亡き後もHPは、無人の研究所に生徒を募集し続けている。
Blogは今も生きているように新たなアクセス者に言葉をかけ続けている。
筆者を偲ぶ人にとってはいつまでも残ることを望むかもしれないが
筆者自身はどうなのだろうか。
私のBlogもまた同じことが言える。


先生のBlogをざっと見ていて、ある画に目がとまった。
その参考画像は、かつて私の描いたつたない水彩画だった。

研究所時代の着彩描写_1

今まですっかり忘れていたこの透明水彩による課題作品をあわせると、
研究所には少なくとも3枚残してきたことになる。
「つたない」と書いたが、今自分はこれ程のレベルで描けるだろうか。
先生の指導では、30年のブランクがあったとしても、
いついかなる時でも目の前にあるものは「理解さえすればいつでも描ける」ということだった。

画を見ていて、忘れていた記憶が徐々に甦ってきた。
実際の野菜は光が当たっている部分も陰の部分も、色が濁っているところはどこにもない。
陰の部分の明度を落とし、しかも彩度を落とさないようにするのに、
とくにピーマンの陰の濃いグリーンに苦心していた。
長ネギの白い部分にほんのりと赤みがさした部分がある。
これだけのモチーフに大きく6つの色彩群があって、それぞれの質感、立体感が異なっている。
構成はともかく、当時の私はなかなか良い素材を選んだようだ。
記憶が一気に25年前に飛び、これを見ている間、
私の気持ちは学生時代に戻っていた。


先生の文章に印象的なものがあった。
今の世は平和だから、30歳近くになってさえも「自分探し」をしている人が多い。
若い日には、何かに一生懸命に打ち込む期間が必要だ。
自分を探すにはその経験がなにより大事だ。
それは美術でなくとも良いのだ、と。

つまり、アイデンティティを築くには、
ぼんやりと周囲を眺めているだけでは見つからない、
人生の新たなドアを開くことはできないぞ、ということだろうと思う。
「君らに今一番大事なのは、“ひたむきさ”なんだよ」
学生だった私たちに、そう言っておられたことを思い出す。

Tag:水彩画 静物

かつて朝から晩まで、
研究所の教室内でモチーフとして向かい合った石膏像たち、
ブルータス、アリアス、ミケランジェロ、ジョルジョ、そしてヘルメス・・・
また新たな年が始まり、教室に新入りのセントジョゼフ像が並んだ日、
その大きさに驚いたことも忘れがたい。

我々は像に、白い惑星にうねる山脈を見、そして水のない海を見た。
これは人物ではない、立体なのだ、そう先生は言われた。

朝9時前に石膏室にはいると、ビルが閉鎖される夜8時まで、
食事もとったかどうかわからず、疲れも知らずにぶっ続けで描き続けた日々。

あの総合美術研究所の教室で、多くの若者達に感動を与え続けた石膏像が、
竹中先生亡き後、家の外に風雨にさらされるままになっていると
友人から知らせが届いた。
画の恩師の訃報が週末に届いた。
師については以前この記事でも書いたことがある、
大阪にある総合美術研究所の竹中保先生だ。
突然の病に倒れられてからわずか3日後の10月8日に急逝、
享年は通知に書かれてはいなかったが、73歳のはずだ。
現在すでに1カ月がたっており、
さらに葬儀もご家族の意向で、内輪の家族葬で済んだあとの訃報だった。


竹中先生は京都芸大洋画科卒業後、(意に沿わず、だったかもしれないが)
最初は大日本印刷の企画部(クリエイティブセンター)にて
グラフィックデザイナーの職に就かれた。
その大日本の10年間、ただの一度もコンペで負けなかったことは、
それがどれほどすごいことかは、同じ業界内にいなくとも想像がつきそうなものだが
ともかく不可能に近い偉業であったことは間違いない。
その後長きにわたって社内の語り草であったそうだ。
高度成長期の時代、月間の残業は150時間を超えたが
日々の疲れとストレスは、深夜の帰宅後に石膏像に向かうことで解消していたと
いつだったか講義中に話されたことがある。
そこを10年間勤めた後、在職中から大学などで講師として指導に当たられた経験から
造形の正しい基礎教育の必要性を痛感され、指導者へと転身された。

ご自身が立ち上げられた研究所では、芸大の予備校という形をとっていたものの、
短期間で身につけられる描写、色彩、立体の造形力は芸大受験にとどまらず
一生涯、物づくりの仕事に活かせる基礎体力となる画期的なものだった。
指導は感覚的な言葉は一切なく、厳しくはあるが明快で、
河内弁の語気荒かったため多くの生徒から反発も買ったが
その内容の真価を理解した生徒からは多大な感謝と尊敬を集めた。
教室外では意外に憎めないキャラクターをお持ちだったこともあり、
卒業後も先生を慕って学校のお手伝いを希望するOBも多かった。
私もできることならそうしたかったが、
開所以来、おそらく6年間も在籍したのは私だけだったろう、
たいがいは一年、長くても二年で卒業していく。
そこに6年、うち4年は授業料もとらずにおいてくださり、
そういう「落第生」を通り越して、「年を食った問題児」であれば
お手伝いはおろか、自らをまずどうにかしなければならなかった。
結局どこの大学にも行けないまま東京に出てきてしまい、
その負い目は40を過ぎても同じように引きずり、
先生の前におおぴらに顔を出すこともはばかられたのがこの私である。


  以下少し長くなってしまいます。
  追悼文でもあるのでご容赦いただきたいと思います。
  でももし最後までお読みいただけるなら幸いです。

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