雲(ガッシュ)

選挙の時には「丁寧に説明する」と言っていたし、
同じ党の議員も「首相がそう言っているから(まあまあ)」と言っていた。
選挙後、説明の機会すら持つ前に鑑札を出すというのは
早々の公約違反というか、公約破棄じゃないのか。
身内高官から告発が出て、勢いに乗ったマスコミなどが
「文部省職員の肩は勇気を持って告発を」と言ったのはついこないだの話だ。
それに促されて声をあげた人の勇気は無に帰した。
ヤンキー先生は元のヤンキーの顔に戻り、さっそく粛清するのだろう。
これからはみんな口をかたく閉じ、促されて声を上げることはもうないだろう。
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アーチ橋のシルエット
(インク、水彩)

週末、ビデオに撮っていた古い映画の「戦場にかける橋」を見ていた。
その前に「ライアンの娘」(これも古い作品)を見てすごく良かったので、
週末はデビット・リーン作品を連チャンで見ることになった。
「ライアンの娘」はすごく良かった。
作品半ばになって飄然と現れるのが重要な役どころとなる
クリストファー・ジョーンズ演じるドリアン少佐(不思議な名前)。
ジェームズ・ディーンに似たこのハンサムで憂いのある役者が最高なのだけれど、
あまり聞いたことがないと思っていたら、この作品を最後に引退してしまったのだという。
出演作はわずかに三本、そういうあたりもJ・ディーンを思わせる。
どちらも戦争の不毛を描いた傑作だけれど、「戦場にかける橋」は男性ばかりが出るからか、
戦場における交戦国どうしの、男の国民性が描かれる。
それは戦争における国際協定にさえ優先する精神的なもので、
自由の国米国のW・ホールデン演じるシアーズ中佐には理解ができない。
日本人(早川雪洲演じる斎藤大佐)の武士道と
英国人(アレック・ギネス演じるニコルスん大佐)の騎士道、
その間で自由に、人間的に動き回る米国兵の描き分けがリーンの腕の見せ所だ。
(ただし英国人以外は日米ともに丁寧に描かれているのはどちらもひとりだけ)
収容所から脱走に成功し、橋を爆破するためにするふたたび戻ってくるシアーズ中佐が
爆破作戦の準備を終えてこう言う、
「想定は往々にして想定以下の結果をもたらすという。」
(以下「ただ、今回はうまくいきそうだ」と続くが、結果は敵味方に大きな犠牲を残す。)
いろんな局面でこのセリフが現実の教訓になることは多い。


現実の世界に戻って。
一夜明けて新聞やTV、ラジオの言葉の風景は一変した。
選挙の想定は想定以上の結果を出したようだ。
無力感の厚い雲が立ちこめていたところに突然割けた晴れ間、
といったところで、気分がが少しだけ軽くなった。
今まで、強引な政治も不祥事や疑わしいことも、一週間で忘れる寛容な国だった。
2大週刊誌のスクープや前川さんの告発の貢献などもあるけれど
TVで見た、菅幹事長を1時間近く追求した、
東京新聞の望月記者の姿がもっとも鮮明に残っている。
質問相手に食い下がる姿は、米国で今、大統領とプロレスさながらの
ペン(というよりキー)によるバトル繰り広げるジャーナリストの姿を思わせる。
ああいう人にしっかり光を当てて大きな拍手をしてあげれば、
マスコミも「いい仕事」をするるのだろうな。
そうでなければ新聞は遠からず、存在価値がなくなってしまうだろう。

現実にはまだ暴走するタンクを一時停止させたにすぎず、
これまで突然現れた新しい地方政党がそのままうまくいった試しもない。
ひとつの政党が新たに議会を独占しているのも、状況は同じといえば同じだ。
躍進の元になった都知事も、政治的思考の根っこは現首相と同じ方向のはずで、
その後気が変わったとも聞いていない。
それでもやっと見えた晴れ間には違いない。

画は少し前に描いた橋の画。
toshiba


東京へ来て、一つ一つ買い足していった、わが家にある電気製品、
トースター、洗濯機、レンジ、電気釜などなど。
なかには道具屋で買った'60〜'70年代のレトロ家電もある。
そしてそれらを見渡すと、T社の製品は新旧織りまぜ、かなりある。
どれも丈夫で長持ち。
ひとくちに1兆円の赤字というけれど、
重さあるかなきかの一万円札をあつめて積んで100トンの重さ。
一秒間に一万円の浪費を続けて3万年かかるという。
原子力好きのアメリカが、なんで米国第一の原発メーカーを売りに出すのか、
それを日本の会社が買った時にはほんとうに不思議に思ったけれど、
おそらくカモられたのだな。
ニッポンはしかし、これからもきっと国ごとカモられるだろうという、
確信めいたものがある。

いっぽう、ニッポンの政治家や公務員の度外れた厚かましさはどうだろう。
見られては困る記録は勝手に捨てるし、
あったことはなかったことにする、コトバはつねに玉虫色。
そのうえで、記憶も記録もないと開きなおるあたり、始末が悪い。
公文書って、あんなに軽いものだったのか。
アフリカでも日本でもその申し開きと扱いは同じだ。
そうやってなお態度の大きい彼らへの支持率は、今もおどろくほど高い。
あきれるだけでたいして怒らない我々はここでもカモだ。

小学校のことはともかく、首相を含む国や地方を実際に動かしているメンメンが
あの戦前を思わせる教育方針については今も小さく、しかし強力に支持、拍手している。
それについてもおおかたの日本人が、たいして驚いていないようだ。
ワイドショーに名前の挙がった面々は皆仲間である。
別の舞台で百条委員会に引っ張り出された元都知事はもちろん、
今人気急上昇の東京都知事も例外ではあるまい。

今、国を動かし、法を替え、法の解釈を変えている主役は誰かと思うとき、
日本はちょっと途方にくれる状態だ。
うちらは無用、と断っても、包装紙を変え、見た目を変えての押し売り、掛売り。
ペラっと貼られた⦅安全⦆マークは「開き直ったメンメンが保証」という、
これは笑えないことになっている。
どうやらまた、かなり危ないものを買わされることになる。
先の醜聞は、証人が言ったようにトカゲの尻尾になって、
いっときのネタで終わりそうな気配である。
それでもフラストレーションがたまらない寛容というか、無関心が彼らを支えている。
国会で彼らが笑っているのを見た。
北風がふきすざぶ今年の春だ。
「自分はあそこを襲撃します」と、国会議員や警察が計画書まで手渡されながら、
たったひとつの養護施設を守れなかった話なんてあるのだろうか。
犯人は極端な思考を持った例外的な人物だと思いたいけれど、
残された文章からうかがえるのは、かつてどこかで聞いたことのある内容だ。
どこで染まったのか、弱者排除の思考が歴史を越えて蘇ってきたことに戦慄する。
計画を知らされた者がとった、どこかよそ事のような対応と酷薄さにあきれ果てる。
さらに、犯行後もさまざまなひとを傷つけるに違いない内容の犯人の文章を
繰り返し読み上げるTVの無神経にも言葉を失う。
ドイツはじめ欧州の国であれば、そのまま読み上げるなど許されない内容のはずだ。


5年前の東日本大震災が起こった直後のTVでは、
何もかもが不足する被災地で診療を続ける医師の姿が映し出されていた。
その時に放映された特番で、辺見庸が語った言葉が今、強く思い出される。
放射能が高いレベルで存在する原発事故のあった周辺で、
なおそこを一歩も引かない医師を見て辺見庸は、カミユのペストを引用して言った。
あれが小説の医師、ベルナール・リウーだよ。
あれが誠実さっていうもんだ。
なにもかもが失われて着の身着のままの寒さに震える被災者の群れが残されたとき、
必要なのはあきれるほどに単純なこと、人間の誠実さだと。
その時ほんとうにわかったこと、
混乱の極みにあるが故に、それに乗じるのではなく、いつもよりもう少し他者に優しく。

私はその時まで、そういうときに人の命を救うことができる医師というのは、
自分たちの命よりも重いのだと、そう思っていた。
辺見庸はその時同時に、
震災で置き去りにされて亡くなった老人ホームの人たちのことにふれた。
80(歳)だから、90だから、もういいだろうと、ひとは考える。
施設に入っている自分の老いた母もまた、
若い人、もっと社会に役に立つ人に生きてもらって、
自分たち老人が身代わりになればよかったと思い込んでいるのだと。
しかし、それは断じて違うと、辺見庸は言う。
社会的に弱い立場のひと、社会に何の役にも立たない人こそ励まさないといけない。
そういうひとを尊重する社会でなくなったなら、
われわれはもう人ではない。
被災地でひとを診続ける医師の存在は重く大きい、
診てもらう人々がそう思うのはいいけれど、
社会が、「だからあの人には生きてもらわないと」というのは違う。
若いから、社会に有用だから、役に立つから生きるべきと、そう思ってはいけない。
社会的に弱い立場の人を支える、尊重する社会でなくなったなら、
それはもうひとの社会ではないと、歯がみしながら私も思う。

勝ち組が持ち上げられる。
儲け話に乗り遅れるな。
自己責任があたかも社会のルールのように喧伝され、
能力のないものを社会のお荷物のように見る今の社会の凶暴な顔を見て、
この事件の犯人も変わっていったのではないか。
私たちの社会は、あとどれくらい「ひと」の社会でいられるのだろう。
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どの国のいつの時代に生まれたか、あるいは暮らしているかによって、
その人の目に映る世界の姿は大きく違う。
もっといえば、目に映る世界は人それぞれですべて違う。
それそれの国の人はそれぞれの視点で世界を見、
それぞれの論理で考える。
たとえば原爆を持つ国と持たない国、
持たない国は持てる国のいうことが理解できず、逆もまた哀れなりだ。
剣を持つ国は手にした刃の切れ味に腐心し、持つことの正当性をルル語るが
そばで見せられ、聞かされる方はただ不気味なだけでたまったものではない。
ヒロシマやナガサキに謝罪しようがしまいが、
自らの猛々しい内面は、実はいささかの揺るぎもないのだろう。
しかしJFKの娘さんがなんとか大統領の手を引いたことで
アメリカにとってヒロシマ行きはタブーではなくなった。
あのアメリカでさえ、継承された平和を呼ぶ声は
小さくともむだではなかったのだと、驚いたり感動したりする。
任期一杯正気を保った人物がたまたま大統領に就いた幸運が、
人間の転覆をあと一歩のところで持ちこたえている。

日本は戦争を経験して、非戦、反核の誓いをたてた。
憲法も現実に合わせてハードルを下げる必要はなく、
慰霊碑に刻んだ「過ちは繰り返しませぬから」の誓いを守るために九条はある。
しかしいったいなにが「過ち」だったのか、
それが抜け落ちていたために日本はいまだ、
非戦の旗を掲げながら右へ左へゆらゆら揺れて頼りないことこの上ない。
大統領のヒロシマ訪問から時を置かず日本の視線ははやくも横にそれ、
東の都知事の金の使い方に釘付けになっている。
日本の首都は、毎度ろくでもない人物しか選ばない。
これは、自分たちの映し鏡でもある。
ねずみ男の浪費には腹も立とうが、我々の命にまではかかわらない。
命にかかることには逆におおらかであったり、
先伸ばしして平気であったりする。

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