日本の選手が活躍したリオ五輪も残すところあとわずか。
今まで比較的地味な競技と思っていた卓球とバトミントンが
見ていてこんなに面白いのかと、目を開かされた思いだった。
日本の選手が強くなったことがまず大きいのだろう。
卓球の福原愛選手は競技内容も素晴らしかったけれど、
コート上で見せる所作がとても美しいと思ってみていた。
その人があることに反応しての立ち居振る舞い、
つまり所作を見ればどこの国の人かがおおむねわかるという。
我々アジア人にはイギリス人、アメリカ人、フランス人の違いがよくわからない。
同じ白人同士が一見して米英独仏露の別がわかることがとても不思議だ。
(逆に欧米人には日中韓国人の違いがわからないらしい。)
中にはわかる人もいるけれども、
一般的には服のセンスや髪型、もっと簡単には言葉などを聞いての判断さえ結構危うい。
そういう外見に頼らずすぐにわかる人というのは
やはりその人物の所作を見ているのではないだろうか。
その人の母国を思い起こさせる、内側からにじみ出てくるものとは一体何だろうか。
先日師のU氏をたずねたおりにそういう話題に及んだとき、
アメリカ人の所作は「車からの乗り降り」につきるということだった。
自動車とともに発展してきた国民にとってクルマは靴のようなもので
映画などを見ても、もはや乗り降りの動きをまったく意識させない。
そこに米国人ならではの所作を見る。

話を戻して、競技の世界にいるときの福原愛選手には
日本女性特有の所作を見る思いがする。
それが美しく、なぜだかとてもなつかしいのである。
その点、男性はすでに無国籍化している。
ちなみに男女を問わず、メダルを噛むというギャグはたしか
日本人がはじめたんじゃなかったか。
かっこわるいからそろそろやめてほしいけど。。

リオ卓球

ところで今回の五輪の会場で、卓球会場のライティングと
コートである卓球台のデザインがとてもかっこよかった。
ホテルのロビーにでもありそうな、あんな大きな木製の脚のデザインは見たことがない。
値段もかなり高そうに見える。
そう思っていたら、じつは北海道の三英というメーカーが作った日本製なのだそうだ。
そう思って見ればこのデザインは、とても日本らしくも見える。
同社のサイトによれば、デザインはもとソニーの工業デザイナーで澄川伸一氏、
制作した関連会社の工場は北海道の三英TTFという従業員が15人の小さなメーカーで、
特に脚部は反りの少ない集成材を作るために、
柳宗理のバタフライチェアで有名な天童木工が担当したそうだ。
材質においても特徴的なそのX型の台脚は、東日本大震災被災地の木材を使っている。
日本の選手が男女とも活躍したことといい、なんだかいい話だと思う。
ちなみに私が自宅で使っている古いアームチェアも同社(天童木工)製で、
天童木工など知らない道具屋のおじさんから20年前に1500円で買ってきた。
やはりデザインがよかったので買ったものだ。

リオオリンピック卓球台
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Freewheelin' Poster

友人の家に食事に招かれ、帰りにおみやげでボブ・ディランのポスターをもらった。
このポスターの写真は、ディラン2枚目の「The Freewheelin' Bob Dylan」
ジャケット写真を用いたものだ。
この写真に文字を小さく入れただけの何の変哲もないフリーホイーリンのジャケットは、
ジャズやロックなどの優れたアルバムジャケットデザインの中でも、私が最も好きなものだ。
それを知っていて、古い友人はプレゼントしてくれたのだと思う。
これはほんとうにうれしい。ありがとう!


ディランの名前を初めて聞いたのが小学5年の時、
仲のよかった同級生のお母さんが彼のファンだった。
その曲を初めて聴いたのが中学生の時。
私の高校までの洋楽遍歴を並べると、
「映画サントラ」→「エルビス」→「ビートルズ」→「ディラン」→「ディープパープル」
→「JAZZ」 それからはもっぱら邦楽へ、矢沢永吉などなんでも聴いて今に至る。
難しいものは聴いていない。
当時は曲を聴こうにもレンタル店などないから3000円近くもするレコードを買うか
持っている友人に借りるしかない。
聴く範囲は簡単には広がりようがないのである。
今40代以上の世代にとって、自分がこれまで聴いてきた音楽はすべて
iPodひとつの中にすべて納まってしまうというのが、一般的な音楽歴ではないだろうか。
映画だって、TVの吹き替えを見るか、劇場へ足を運ぶしかない。
レコードをバンバン買えるリッチな友人を持つか、映画館を親戚に持つ友人がいればラッキーだ。
私は後者の友人に恵まれた。
しかもこのポスターをもらったのは、その友人からであり、例のボリウッドマンである。
ちなみに彼はディランのかなりコアなファンだ。
86年の来日の時にはこれがなぜか最後になると思い、大阪と東京のすべての公演に彼は行った。
以後、予想は外れて数年に一度来日し、
94年には故郷奈良でも歌うというサービスぶりだ。

中学三年のとき、FMで2週間だったか毎週だったか、
ディランのすべての曲(当時は「欲望」まで)をオンエアするという企画があった。
夜中1時過ぎからの放送を高校受験の直前にもかかわらず、眠い目をこすりながら録音した。
これも今のようにタイム予約録音などできないし、
録音するカセットテープは放送途中に一度裏返さなくてはならない。
曲目もナレーションを聞きながら手書きでメモをとらねばならず、
放送が終わる3時近くまでずっと起きていなくてはならないのは、
その夜はもちろん、翌日の授業中に襲ってくる睡魔と戦う、苦行に近かった。
だからといってコアなファンかというと、
ディランに関する本は一冊も読んでいないので関連知識は無に等しく、
「欲望」以降はほとんど聴いていない。
フリーホイーリンのジャケットに関しても、詳しいことは何も知らなかったのだ。

Wikipediaによると、隣の女性はてっきりジョーン・バエズかと思っていたら、
1963年当時の恋人、スーズ・ロトロなのだそうだ。
あまりに簡単にわかったことに驚く。
これでは近いうちに紙の百科事典は無くなるだろう。
CBSの専属カメラマンのドン・ハンスタインは1963年、
ふたりが住む安アパート近くでこの写真を撮った。
ネットにはさまざまな別カットがアップされている。
はじめて気がついたのだけれど、地面には雪が残っている。
どうりで寒そうにしているはずだ。
コートをあえて着せなかったのは、前作のジャケット写真とダブるからだったのか。
(そのデビュー盤ジャケットに写っているディランは相当に田舎くさい。)

昔の恋人とともに仲良く写っている50年前の写真、
ディラン本人はこれを見て今、どう思うのだろうか。
スーズ・ロトロは17歳でディランと出会い、写真は20歳の時のものである。
晩年ブッシュと共和党を批判し、2011年に亡くなったそうだ。
Freewheelin' アルバムジャケット
セガレがまだ小さい頃だから、5〜6年前のことである。
二人を連れて、その日は東へ向かう地下鉄に乗っていた。
奥さんがいたら必ず車に乗って出かけるので、その日そこにはいなかったはずだ。
その時向かいには和服を着た年配の女性がひとり乗っていた。
セガレたちはふだんは乗らない電車に乗って、いつもよりおとなしくしていた。
着物の女性はセガレたちをじっと見つめていたが
やがて手提げの中に手を入れて、なにかを探っているようだった。
次に腰を浮かし、こちらのセガレたちに向かって
今手提げから出したその手を握ったまま、ぐっと差し出してきた。
「おあがりなさい」
セガレたちの手のひらに乗っていたのは氷砂糖だった。
私自身が氷砂糖を見たのも、それをおやつとしている人を見たのも
ずいぶん久しぶりのことだった。

そんなことを思い出すと、氷というよりあの粉を吹いたガラスのようなカケラを
口に入れたくなってお菓子屋へ向かった。
はたして梅酒用以外にお菓子として小袋で売っているんだろうか。
心配にはおよばず、コンビニにはなかったものの
意外にも大手スーパーのお菓子売り場にちゃんと並んでいた。
しかもただの砂糖のかたまりにすぎないこの飴が
いろんな風味のついた今ふうのシュガーレスキャンデーなんかより4割方高いのである。
自分が買いに来てなんだけれど、買う人の顔を一度見てみたい気がする。
子供の時と何ら変わっていないように見える氷砂糖もよく見ると変化がある。
昔は一つ一つ氷の形に成形されていたように思うが、今のは大きな固まりを砕いたように見える。
粒のサイズに小さくはないばらつきがあって、子供には食べにくい大きさもあるようだ。
製造過程の効率化がこんな氷砂糖にも及んでいる。
うちでは梅酒なんかも造らないのでもう二度と買わないかもしれないと思い、
長く使っていなかったオイルパステルを引っ張り出して、
比較的大きさが近い氷砂糖を三つ並べてそれを描いた。
オイルパステルはソフト〜と違い、フィキサティーフをかけても色が変わらず、
定着もしっかりできる。
こちらも意外に使い勝手が良いことを再確認。

氷砂糖
(F0、オイルパステル)
銀座で最も古い百貨店、松坂屋が先月いっぱいで閉店した。
跡地は周辺を含め、ただの建て直しではなく大規模な再開発が行われる。
再開発のために辺り一帯は一時更地になると思われる。
東京に来たばかりの頃、このあたりにあった「東京温泉」を中心とした
大規模な地上げと再開発が行われていた。
私が初めて就職したちんぴらデザイン事務所の専務が、
企業担当者になんらかの面識があったらしく
私のような新入社員を営業にやらしたものの時はバブルまっただ中、
相手にされるはずもなく、営業に行って通された仮設の事務所の窓から見えた、
この銀座のど真ん中に出現した広大な空き地に目を見張った記憶だけが残った。
あれはどのあたりだったのだろうか、今となってはさっぱりわからない。
銀座六丁目にあったらしいからまさにこの辺にあたる。
大正時代の古いビルが残っているこのあたり、
いったいあの日見た広大な空き地はどこにあったのだろうか。
Wikipediaによるとその後、東京温泉跡地開発に関わった企業はバブル崩壊後、
ほとんどが倒産したという。
東京温泉と聞けば、地方から夜行で出張に来た営業マンが到着朝一番で
ひと風呂浴びる銭湯が東京駅地下にあったことを思い出すとある人に聞いたが、
銀座ではキャバレーや風俗店なども手広く経営していたということだ。

話は松坂屋に戻って、
再開発される一帯には百貨店建屋のうら、路地にして2本目までが含まれる。
それだけ聞いても東京在住の人ならかなりの規模になることがわかる。
そして、その端っこにこのあたりで最も古い大正時代のビルが含まれている。
「気まぐれ美術館」を亡くなるまで連載し続けていた洲之内徹の「現代画廊」は
そのビルの3階にあった。

現代画廊-1(ビル外観)
ジャズ喫茶のマッチ

奈良へ帰った折、すぐに自宅へは向かわずに京都を散策した。
市内を歩くのははや十数年ぶり、所帯を持って以来初めてだ。
古都奈良とともに京都も日本で最も古い街であり、
その古いところが人を集めているにもかかわらず、街はどんどん変わっている。
それに引き替え、自宅の団地付近は新興住宅地であったにもかかわらず
外観こそ変化が少なかったが人やとくに子どもの数が激減し、
老いるふるさとにやりきれない寂しさを感じる。

京都の町は私が高校生の頃、美術館に行った時にはジャズ喫茶に寄るのが常だった。
京都は学生が多い町で、60年代から70年代にかけて少し背伸びした学生たちが
ジャズをガンガンにかけた店内で、眉間にしわ寄せ一杯のコーヒーで
毎度何時間も何かに悩み続けたらしい。
私が通った頃にはそういう学生もいたかもしれないが多くはなく、
多ければきっと、どの店もつぶれていただろう。
奈良にはそういう喫茶店は少なく、当時の私には珍しく映った。
大阪はどちらかというと、ロック喫茶や当時はやったディスコが主流だった。
当時高校生でジャズを聴いていたと言えばちょっと鼻持ちならない感じになるが、
私の聞けるのはモダンジャズまでで、フリーになると頭が痛くなる。
エリック・ドルフィーまでがせいぜいで、オーネット・コールマンは勘弁といった感じは
印象派からピカソまでは好きだけれど現代アートは苦手、
といったところと似ているかもしれない。

そういう店をまわって、きれぎれの思い出と店のマッチが後に残った。
上の写真は実家に残っていた、その頃集めた燐寸である。
・・・・
中には京都だけでなく東京や、友人にもらった海外のものもあり、
東京の表参道にあったペニーレーンや、ハナエモリビルの「猫」のもある。
もっとあったが、ずいぶん前にほとんど捨ててしまった。
記憶の店はまだあの場所にあるだろうか。
おそるおそる路地を歩き回った。
もう場所もほとんど覚えていなかったが、
三条から四条にかけての高瀬川沿いに集中していたので、
そのあたりを歩けばかなりの店が見つかるはずだった。
京都の裏町
(この店はいったいいつから中島みゆきをかけ続けているのだろうかと気になった)

さて、結果から言うと、
集めたマッチの中にもある「ブルーノート」
「築地」「フランソア」「ソワレ」はまだ健在だった。
しかし、今回コーヒーを飲んでいきたかった「みゅーず」はすでになく
「蝶類図鑑」は当時も店を見つけるのに難儀した覚えがあるが、
店自体がなくなっていたようだった。
「みゅーず」はクラシック専門の名曲喫茶で、
私はクラシックは聴かないものの大型で旧式の巨大スピーカーを前にして、
音楽堂のように同じ方向を向いて据えられたビロードの椅子に、
今一度座ってみたかったのだ。
しかし歳月の審判は厳しい。
建物はそこに残っていたものの、店自体は焼き肉屋に変わってしまっていた。
その斜め前に「ソワレ」が健在だったのが救いだ。
しかし「ソワレ」も「フランソワ」「築地」も、かなり(昔の)少女趣味が強く、
私は今回ひとりで入ることができなかった。
ソワレは東郷青児の画が店内に飾られたり、カップに使われていたりで今も有名だ。

「蝶類図鑑」はその名の通り、店内にはおびただしい蝶の標本が壁に掛けられていて
そのマッチ(下の写真右)は当時集めたマッチの中でも異彩を放っていた。
ジャズと蝶がどう関係しているのか、最後までわからずじまいだったが
当時店内にはマッチに書いてあるモダンジャズではなく、
苦手の激しいフリージャズが大音響で流れていた。
蝶類図鑑

ジャズ喫茶を最も多く回った日は一日に4軒、
学校をサボって丸一日京都をうろついていた。
歩けばもっと回れたが、もうそれ以上は一口もコーヒーが飲めなかったのだ。
京都駅まで友人と歩いて戻り、やれやれと電車の席に腰を下ろしたら何という偶然か、
我々の真ん前に立ったのは高校の生徒指導の先生たちだった。
翌日は当然、シビアな生徒指導が我々に下されることとなった。。

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