山本昌投手(写真は時事通信社

プロ野球中日ドラゴンズの山本昌さんという投手が引退した。
現役生活は32年にわたり、しかも投手というからすごい。
私とそれほど変わらぬ年齢で、とりあえず今も現役なのである。
と言っていながら野球はほとんど見ないのだけれど、
まったくうかつなことに私は、引退したその日にこの人のファンになった。
しかしこの人の感じの良さはどうだろう。
引退の言葉は「世界でいちばん幸せな野球人生だった」という。
こんなにごつい体格の人なのに、趣味がラジコンとクワガタムシの飼育というのが面白い。
こういう人は孤独が平気で、
ひとりでコツコツ何かを積み上げていける人なのだと思う。
以前TVの取材時にもひたむきでかつ、穏やかな人柄がよく伝わってきていた。
写真だけでなく、声を聞いてみるとなおさらそう思う。
テレビでこんな良い人相の人を見るのは本当に珍しい。
こんなことを思うのはつまり、日本人の中からこういう表情が、
見られなくなっているということなのかも知れない。
テレビの向こうから風が吹いてくるようなさわやかさだった。
翻って、先日まで国会のお城からの中継で見せられた何百もの悪相。
世も末かと、まるで別の人種を見ていたような気さえする。

人は外見ではないと言うけれど、そんなことはない。
よく見れば、あるいは一目で嫌な部分がはっきり見えてくることもある。
肖像なんかを描いていると、
街中やTVでいろんな顔を見ればなおさらそういうのが目について、
ときどき嫌になってくることがある。
逆に、映画などで役者が演じる人相の悪い悪役、
これがあとで思い出してちっとも悪相には思えない。
役者本人は悪人をひたむきに演じているのであり、
それは悪相にはなり得ないのだろう。

ところでこの山本昌投手、
私が学生時代にバイトした中華料理屋のおっちゃんにどこか似ているのだ。
そういうわけで、なんか他人に思えないのである。
スポンサーサイト

友人のアンティークショップが近所のもらい火で全焼して一年後の今日2/11、
ついに営業再開にこぎ着けた。

先に東京都美術館を回ってオープンの時間に芸大裏にある店の場所へ向かうと、
懐かしいあの店の前にはすでに黒山の人だかりになっているのが、遠くから見えた。
かけつけた友人知人、なじみのお客さんたちだ。
私はその中でも最古参のひとりだと思うけれど、年齢層は学生から老人まで広い世代にわたる。
改めて社長のKさん、店長のA君の人柄が思われる。(今は共同経営者か)
「おめでとう」「よかったね」「おめでとうございます」
誰もがそう言って握手の手を差し出す。
涙を流すやつもいた。

以前のモノがあふれて混沌としたカオス状態から思えばあまりに少ない棚の商品。
これもそれほど時を置かず、店内を埋め尽くすだろう。
今、店内の真ん中にはなんと、昭和42年製の消防車の実物が置かれている。
(ちなみにこれはオークションで購入したそう。)
しゃれにならないこの旧車が新しい店の守り神となると同時に、
堂々の古物でもある。
こういうセンスがふたりの変わらぬ若さを象徴している。
20150211-2.jpg

生活必需品を売ってるわけでもなく、安売りでもない店が
客からこれほど大事にされるというのは珍しい。
これからもここ根津で、クセとアクの強い店として長く続くだろう。
(下は、かつての店内の一部)

20150211-3.jpg
スクラップ

経済記事最優先の日経新聞とはいえ、ときどき生の心に触れるような記事が載っている。
そのたびに切り抜いておくものの、
本の間に挟んだり、机の上に置いておいたりするうち、どこに行ったかわからなくなってしまう。
これからはきちんとノートに貼り付けておこうと決めた。
いい話は繰り返し読んでもなおいい話だ、忘れてはもったいない。
昨年あたりから本の中に見つけたいい言葉を、小さなノートに書き写すことをはじめた。
新聞と違って切り抜くことはできないし、線を引いてもどこに引いたかわからず、
おまけに年齢だろうか、翌週にはきれいに忘れてしまうからだ。

週末の新聞、スポーツ欄のFIFAワールドカップの欄に、
いつもは硬派のサッカーに関する記事を書いている吉田誠一さんという人が
その日は記事と言うよりはコラムのような文章を書いていた。
開催地ブラジルの街中で、現地の人から取材中に受けた、
でも日本ではまず受けないような小さな親切の数々をスケッチしている。
読後感は、松浦弥太郎さんのエッセイによく似ている、温かく清涼感のあるものだ。

カフェでコーヒーに砂糖を入れようとすると、隣に座っていた年輩の女性が制した。
言葉が通じないので身振りでこう伝えてくる。
「一口飲んでからにしなさい」
その店のカプチーノは砂糖が入っていて、すでにかなり甘いのだった。

朝、ジョギングに出ようとするとホテルの従業員が後ろから追いかけてきて、
迷うと思ったのか、住所が書かれたカードを渡していった。
案の定、そのカードを見せて道を聞きながら戻ってくることになった。

タクシーで膝に荷物を載せていると「外から見えないように、床に置きなさい」と言われる。
強盗に遭う危険性があるからだった。
記者は他でもあちこちで自分の身を守る方法を伝授される。

そんな親切の数々が紹介されていた。

ある時はタクシーで領収書を書いてもらっていて、
車をタクシーに横付けして運転手に道を尋ねてきた青年がいた。
うしろに車がたくさん詰まっているにもかかわらず、運転手は時間をかけて何度も彼に説明する。
訪ねる側も聞く側も、うしろで待っている車のことを気にかける様子はまるでない。

バスが遅れ、鉄道が遅れ、レジでは長い列ができて遅々として進まない、
しかしそれを守ることが秩序だとすると、
秩序とは優しさを削り取ることで成り立っているのではないだろうか、と記者は書いている。

海外の旅(しかもひとり旅)を勧める理由は上のような経験に尽きると思う。
とくに若い人には国内ではなく、海外でこそたくさん親切に触れることを願う。
帰国後はきっと親切をする側に回るだろうから。
そうすれば世界はもっと仲がよく、優しくなれると思う。
11日未明、台東区の古い建物が密集する住宅地で火災があり
周囲の建物8棟、465平方メートルを焼いた。
うち、延焼で焼けた一軒の古道具屋は私の親しい友人の店だった。
早朝で店は無人だったため友人らは無事だったが、店は全焼した。

私に子供ができてからはやや疎遠になっていたものの
30代半ばから40代はじめにかけて、多いときは毎週のように店に顔を出していた。
最初は早朝の骨董市で毎週末顔を合わせていたことから、いつしか声をかけるようになった。
オーナーは私と同い年ということもあり、時代の興味の対象を共有できたことも大きい。
知り合った頃は彼が大手おもちゃメーカーを辞め、
一風変わったアンティークショップを谷中に開店してまだ間もない頃だから
かれこれ20年近いつきあいになる。
当時まだ誰も目をつけていなかったおみやげのこけし人形の
造形のおもしろさに熱中していたことも、お互いを引きつけたのだと思う。
ここのBlogでは「手のひら彫刻」と言っているが、
こういう愚にもつかないものに勝手な解釈をつけて、
他人から見れば単なるがらくたを手に、もったいぶった持論を展開していたのは
当時30代とはいえ、まだまだ若くてアホ丸出しの楽しい時代だった。

オーナーは店からほど近い芸大出身のアーティスト肌ではあるが、
惜しいことに制作活動はしていない。
いつかここに書いたガチャポンの石膏像をプロデュースしたのは彼である。
しかし不思議にも当時も今も、お互いアートのことを話題にしたことはなく、
私がふたたび画を描き始めてからもそういうことはなかったし、これからもないように思う。
ついでに言えば、彼の奥さんは日本を代表する現代アーティストである。

彼の店は当時ブームになっていたマニア系レトロものも扱ってはいたけれど
彼とその相棒(彼もかなりの芸術家肌)の眼を通して集められた古いものが
倉庫のような店内にうずたかく積み上げられ、ほかのどこにもない独特の雰囲気を発していた。
2010年の震災時には、棚から落ちた残骸の山が、床から1m積み上がったという。
そこから復活しての今回の被災だった。
下の写真はかつて雑誌に掲載された、店内の棚のごく一部である。
おどろおどろしい品々の棚は、また別の棚だが、今手元にはその写真がない。
EXPO_03

我々が見れば宝の山も、子供には妖怪が出てきそうなちょっと怖い雰囲気もあり、
小さい時にこわごわ覗いていた子供がいまや24歳になっているそうだ。
そのかつての子供が罹災の日、一切が灰になって真っ黒な口を開けている店頭に一人立ち、
ぽろぽろと涙を流していたという。

ヤフオクの出現と入れ替わりにレトロブームが去り、
都内や近辺のあちこちにあったショップは次々に閉店に追い込まれたが
彼の店だけは今に至るまで長く生き残ってきた。
彼とその店には〈引き〉というものがあった。
店独特のオーラが「なんでこんなものが?!」という珍品はもちろん、
珍客、変人奇人を吸引していた。
この世知辛い世の中のどこに彼ら(奇人変人)の存在を受け入れる社会があったのか、
今もって不思議だ。
誤解を招かぬよう書いておくけれど、奇人が集まっては来たが、
オーナーの彼と店員のみんなは変人でも奇人でもない。
ただ、彼ら奇人らの話にじっとつきあっていられる人たちであった。
彼らはあるときは不思議な買い物をし、あるときは売りにやってきた。
彼らはここに、自分たちの「寄る辺」を見つけていたのではなかったか。
ここでとつとつと語ったエピソードを綴れば、かなり興味深い一冊になるだろう。
それらはおかしくも奇妙な生の数珠つなぎであった。
店のスタッフとここにやってくる変わり者ら全員にとって「夢の砦」だったとも言えそうな、
ここはそういう店だった。


今日の夕方、被災跡の前に立って、在りし日の店と友人らの姿を思い浮かべた。
記憶に浮かぶその日は、
いつもと変わらず店内からぼんやりとした明かりとラジオの音楽が漏れ出ていて、
それはこれからもずっと変わらないと思っていたのだけれど、
終わりは前触れもなく、突然やってきたのだった。

EXPO_02

WHAT'S NEW?