先週末突然1000近いアクセスが集中したのは
日曜美術館で長谷川利行が取り上げられたからだろう。
以前からGoogleで「長谷川利行」を検索すると、
私が5年前に書いた記事がトップに出てくるようになっていた。
よほど利行に関する記事が少ないのだろう。

番組で長谷川利行が取り上げられたのは1978年以来40年ぶりで
その時の放送を私は見ていない。
78年の放送時には、利行その人を隣で見ていた親友の矢野文夫がゲスト出演している。
私が見てみたかったのはその時の映像だった。
生前の利行については矢野文夫の本が質量とも第一だけれど、
一時共同生活もした手塚一夫と中込忠三氏との交流も興味深く、
以前私もここに紹介したことがある。
中込氏の著書から利行らとの共同生活について触れられたところを、再度紹介したい。
二人は矢野文夫が書いた利行の伝記小説にも登場する。

長谷川利行_東京放浪地図

それほど長くもなかった利行の生涯において晩年にあたる時期に多作を強い、
結果的に数々の傑作とともに利行の名を残す黒子になった画商、
天城俊彦の画廊が新宿にあったことはよく知られている。
画廊が新宿武蔵野館のあたりだとすると、利行がカンヅメにされたドヤ街は目と鼻の先、
今のタイムズスクエア(今聞いてもニセ物っぽい名前)あたりになる。
時代の先端を行くようなタイムズの前に、
つい最近までその名残をとどめる和風旅館があり、営業もしていた。
甲州街道をもう少し下ったところには今も古い旅館街がある。
伊丹十三監督の映画「マルサの女」には、
新宿南口に残っていたその闇市時代のような界隈がチラと出てくる。
坂の上にあった横町を下るU字型の奇妙な階段を、松本竣介が描いている。
私は歌舞伎町に映画を見に行くとき、そこのチケットフナキに寄るのが常だった。

利行がここのドヤ街に住んだのは最晩年にあたるわずか2年ほどのこと。
中込氏の著書によると、手塚一夫は女の横顔を描いた4号大の作品をとても大事にしていて
それは彼が上京した折に泊まった新宿の木賃宿で知り合った画家が描いた作品なのだという。
その放浪画家というのが長谷川利行である。
未払いになっていた絵の代金、残り半分を届けるため、
二人はポンポン蒸気に乗って新宿へ向かった。
残金を渡した後、中込氏と手塚は利行に
当時彼らが住んでいた船堀の家に一緒に住まないかと持ちかける。
その折に見た、木賃宿に置かれた利行所有の品々の描写が興味深い。

新宿南口界隈1992
('92年頃の新宿南口界隈)

「こういうところに住まないと絵が描けないからここに暮らしている。
 親切らしく呼びに来たって行かないぞ!」と一度は拒否したものの、
翌朝には絵箱を手に持って、「さあ行こう」と立ち上がるのだった。
暮れに出会って共同生活を始め、春に(利行が)出て行ったとあるので
共同生活は3ヶ月ほどか。
その間、利行の馴染みらしい年増の裸婦モデルを手塚と二人で描いたり、
川で洗濯したり、というような牧歌的な生活が続いたものの、
最後は利行の酒びたりの生活に嫌気がさした手塚が利行を閉め出したため、
三人の共同生活は終止符を打つ。
ふたりの画家に残された時間は余りに少なかったが、
中込氏はその時、そのことを知る由もない。
にもかかわらず、当時目にした二人の画家とその周辺の描写は驚くほど詳細だ。
登場する人物、あたりの空気感が生き生きとしている。

 「老画家はやがて市の養育院板橋本院で一人その生涯を閉じたと聞く。
 彼の短歌もまた美しい。

 汚れたる 枕の紗綾をとりかえつ
 夜床さびしくひとりねむれる

 死の枕辺にはニイチェの「夜の歌」が置いてあったということである。」
というところで、中込氏の著書「炎の絵」の利行に触れた章は終わっている。

貧しい農家の出だった手塚一夫が描いた一枚の絵を見たことをきっかけに、
彼が亡くなる28歳まで生活一切の面倒を見た中込氏は、
自身の晩年に至るまでそのことについてほとんど語らなかったそうだ。
氏の人となりをうかがえる挿話として、若い日の小学校教師時代のことがある。
成績優秀で人柄も良かったある生徒を級長に推薦したところ、
中国人だということで校長から拒否にあった。
怒った中込氏は、ついに教職を辞職し、以後小学校教諭に戻ることはなかった。
その後さまざまな職につき、のちに中央大学のドイツ語教授として定年まで勤めた。
この人の一生は二人の画家以上に波乱万丈だ。

中込氏の残した文章を多く読むことができたのは、
実は私がここで書いた氏の著書「炎の絵」についてのBlog記事を読まれたご子息が
文献と手塚一夫関連書籍一式を、以前送ってくださったからである。
ここで再度感謝を申し上げます。
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東京湾をゆく船-6(ガッシュ)


ここで何度か書いている宮本常一著「忘れられた日本人」は冒頭隠岐を訪ね、
村に伝わる古文書の存在をたずねるところから始まっている。
今とは違い、取材で訪れた村で出会った重要な古文書はすべて手で書き写した。

その時、限られた時間内で書き写すことが難しいと判断した宮本常一は
村の区長にすこしの間その文書を貸してもらえないかと頼む。
すると、「自分の一存で決められぬ」と区長は古文書を持って、
村人の意見を聞きに出かけていった。
その後、区長が帰ってこないのをじりじりして待っていた宮本常一は
とうとう話し合いの場へと自ら出かけてゆく。
するとそこでは村人らの話し合いが皆の納得のゆくまで、
いつ終わるともしれず延々と続けられていた。
そこでの話し合いは理詰めで相手を納得させるのではなく、
ひとりひとりがそれに関係のある、
自分の知っている限りの体験や事例を挙げてゆくのである。
話すことがなくなったら帰ってもいいし、眠くなったら寝てもいい。
気の長い話で、これでは時間がかかっても無理はないと宮本は思う。

このような寄り合いによる決め方はここだけでなく、
旅の次の村でもそうだった。
次の村ではさらに遠方へ船を出し、村の総代が紋付き袴でその船に乗ってやってくる。
同じように集まった全員が納得のゆくまで何日でも話し合いは続けられた。
話に出たあることがきっかけで話題は別の方向へ飛んでゆくことがあるが、
そういうことも話し合いでは重要なことなのだと宮本常一は思う。
いっぽう、自分のひと言が村の人にたいへんな迷惑をかけていることがわかってくる。

今日の論議のように理詰めでは、話し合いはやがて収拾のつかないことになってしまう。
自分の知っていること、体験によるたとえ話をすればわかりやすい。
反対意見が出ればしばらくそのままにしておき、
賛成の意見が出ればまたそのままにして冷却期間をおき、みんなで考え合う。
最後にみんなの長に決をとらせるが、それで気まずい思いをするものは誰もいないという。
宮本常一が「忘れられた日本人」の最初に書いたのは、この寄り合いの情景だった。
それは宮本の目の底に染み入ったという。

今の社会は意思決定のスピードが大事だと、ことあるたびに言われる。
上の「寄り合い」による話し合いは
主に京都、大阪以西の西日本で古くから行われていた。
一見おそろしく気の長い「寄り合いの決め方」だけれど、
どんなに長くとも3日あれば決まり、話を尽くしただけに決定は何より大事で皆が従う。
そして大事なことは、全員が納得して誰も気まずい思いをしないことのように思われる。
本書の出版は1960年、取材は1940〜50年代のことで、今から70〜80年前のことだ。
この話し合いをそのまま今の社会には当てはめられないかもしれないけれど、
現代はこれより優れた方法で物事を決められているだろうか。

IMG_0049.jpg
今東光資料館_2016

ここに何度か書いている作家今東光が
流行作家になるきっかけとなった、いわゆる河内ものを書いたゆかりの地、
八尾に「今東光資料館」ができていることを、最近初めて知った。
同様に、藤本義一氏が住んでいた別荘を改築して記念館とした
藤本義一の書斎」が芦屋にできている。
そのお二人の記念館が共催での企画展が開催されている。
私もここで藤本義一さんご本人から直接の聞き書きを掲載していたけれど、
超個性的なふたりの作家のつきあいは長く、深い。
こういう企画展があってしかるべきなのに、初の企画だそうだ。
八尾というゆかりの地でさえ、今東光をとりあげた企画展は約30年ぶりになる。
その30年前(昭和62年)の企画展に私はたまたま出かけている。
奇縁というか、実はこのBlogがきっかけで今回のこの企画展にほんの少し、
私は協力させていただいている。
滅多にない機会なので、近隣にお住まいの方で興味のある方はぜひ足をお運びください。


今東光資料室

開館時間 午前10時から午後5時

休館日
・月曜日(ただし祝日にあたる場合は開館)
・年末年始(平成28年12月29日から平成29年1月4日)
・その他(展示物の入替等に伴い休館する場合あり)

所在地
・581-0003 八尾市本町二丁目2番8号(八尾図書館3階)

※会期が長いので、上位にアップし直しておきます。
先生の言葉で忘れられんのが、「まがいものにごまかされるな」
先生は晩年に、千葉(佐倉)の家じゃ嫌だと言って、
東京にマンションの一室を借りて住んでおられたんですが、
その部屋に易経の本が360巻、こうズラッと置いてある。
今先生はあれだけ自由奔放に生きてこられながら、ものすごい勉強をしておられた。
僕は先生というのは、大胆にして細心という所があったと思う。
易経というのは、秦の始皇帝がかかえた三千人の易者が、秒、分刻みで
その時、その時を占い、それを残したのが易経として残っているものです。
それが360巻になっていて、今先生は「オレは今、五巻まで読んだ。
あと355巻残して死んでいくことになるんだ」と言われ、
「易経に比べたら、四柱推命だの、手相だの人相だの血液型など、
 みんなマガイモノだ。ニセ物だ!」

またあるとき、
「血液型がどうして違っているか、それによってどう違ってくるのか、
 それがわかればノーベル賞が10個は来るんだ」
「血液型がAだけの世界になっても、Bだけの世界になってもOだけの世界になっても、
 人間は戦争して殺し合ってしまうが、A、B 、AB、O、
 これがそろっているから世界人類が滅ばず、
 ひとつの輪になっていることだけは間違いない」とも言っておられた。
よく血液型が利用されるのは、ひとの悪口を言うときです。
「あの人。エゴイストできっとB型よ」とか言っている人が
ひとの悪口を言うA型だと気がついていない。
「自分はA型で彼女がB型だからうまくいかない」
とか言うのが、最低の人間なんだと知っていただきたい。

皆さんはここにいる人も今、頭ン中で
「腹減ったな」
「藤本、あいつ女房とうまくいっとんやろか」とか、
「どんなふうにセックスしとるんやろか」とか考えてる人もいるに違いない。
今笑ったひとにきっといるはずやな。(笑)
人間の脳っていうのは52のブロックに分かれていて、
140億の細胞がそれぞれに分配されているんです。
その細胞の中が動きやすい状態にある。
それがバカになると、マーボードーフのようになってしまう。
脳のために一番よくないのは頭を温めることで、一番悪いのがサウナなんですな。
一度入ると根性みたいにあの暑いところでがんばるわけですが、
あれをやっていると、脳がマーボードーフになってくる。
ゴルフ帰りにサウナに入ってるが、あれは老人性痴呆症になるんですよ。
サウナから出たときにクラッとなるやつ、あれはあとで必ず後遺症が出る。

今先生は動物と人間の違いを見ろと言われたんですが、単純な動物ほど敏捷でね。
ミミズやムカデなんか、こう、光や音を立てただけでもサーッと動く。
ムカデなんか、切っても動いているのは、背中に脳があるからなんですよ
人間あんなに足があったらたいへんですねぇ。
3本目の足から110本目の足に水虫がうつったとか。(笑)
ムカデの足、最高何本あると思いますか。
これは北海道のムカデで、176足(注:136足だったか記憶あやふや)もあるのがいる。

みなさんも脳はくれぐれも温めないように。
そして空腹感と同じように空頭感を持ってほしい。
うちに近所の学生が来たりするんですが、彼らが来るのは酒を飲みに来るんですな。
ニッカやサントリーを出すんですが、ビンはスコッチのに入れて(笑)
「そうかそうか」って注いで、
「ハァー、スコッチですか、うまいもんですねぇ」(笑)
いいですか、こいつらは文学部なんです。
「君ら、どんな本読んでるンや」
「サマセット・モームなんかです」「へぇ、翻訳で」「いや、原文です」
「ほほー、どんな作品?」「月と六ペンス、それに・・・」
「どのくらい読んだの」と聞くと「このくらい」て指を広げて見せるんですな。
それが本の厚さと思って感心していると、
本の厚さでなく行数なんですよ、学校の教材に出てくる。
それで「君ら、いつ本を読むんや」て聞くと、
「ヒマになったら読みます」て言うんで
「君らヒマになったらめし食うんか」て聞くと、
「そうですねぇ、ヒマになったらねぇ」とまた考えるんですな。
もうバカですよ。
「ヒマになったらメシ食うんか」て皮肉言うとるのに、そいつら考えとるんですな。
60歳過ぎてからヒマになって、「漱石の『それから』、どうやった?」って、
どうしようもないですな。
皆さんも空腹感と同じく空頭感を持って、
これから家へ帰ってからでも本を読んでください。



これまで人生で経験してこられたり吸収した知識の海を、
縦横無尽に行き来した濃密な20分、
あっという間の時間だった。
そのあと、高座から降りた作家は来場者の中へ入っていった。
義一さんは「これから皆さんに上物のマリファナを配ります」と言って
インド土産の細巻きの葉たばこを一本ずつ配り、新野新さんが火をつけて回っている。
一番前のおっちゃんが「おお、これはうまい!」と煙をぷっかりはき出し、
「これもやらせでんな」とニッコリ振り返った。
義一さんはこうも付け加えた。
「人生のうち、ちょっと身体が空いたなら、きっとアフリカへ行ってみなさい」

30年後、アフリカはもちろんのこと、世界全体が紛争地帯化してしまっている。
「こんな夕陽が、こーんな地平線にズァーッと」沈むのを見るのは現在、
行くだけでもある意味命がけである。
藤本義一_4

その後、僕が「みみずく説法」「悪名」なんかを脚色したとき、
(映画)会社で原作料を今先生のところへ持って行かされたんですが、
(昭和)36年当時、50万円の札束を、こう新聞紙に包んで行くんです。
ひとりでですよ。
「落とすなよ」て会社で言われて、
「盗られんやろか、落とさんようにせな」とおっかなびっくり八尾駅まで来て、
駅の便所へ入ったんです。
女子便所、つまり大便所のほうに、その中に入ってその札束をバラッとやると
札の持つ、あの金属質の臭いがするんですな。
「ああ、これがええな、この臭い」
当時は千円札がいちばん高額紙幣ですから、これぐらいの厚さがあるんですよ
(親指と人差し指をひろげて)。
「これ持って逃げたらどないなるやろ」とか(笑)。
そして天台院へ行って、テーブル越しにその札束を渡すと、
バサッと、身体の横へ置くんですな。
これがやりたかった。おれもやりたいなと思ってましたね。
その時も「どこか行ってきたか」て聞かれて
「はあ、マニラへ行ってきました」
「なに、マニラ?!あそこは大東亜共栄圏でまだ外国とは言えん。それではダメだ」
それからアフリカへも行きました。昭和47年でしたかな。
行く前に今先生にお会いしたんですが、
「これからアフリカへ行ってきます」
予防接種を7本打って、左腕が丸太みたいに腫れ上がって、
そう言うと、
「ナニ!お前本当に行くのか」
「はい、これから行ってきます」
「そうか、帰ってきたらオレにしっかり話すんだぞ」(笑)

先生は動物と人間の違いを見てこいと言われたんですが、
アフリカにイボイノシシというのがいる。
イボに見えるのが、これが実はダニでね。
それが大草原をズァーッと走ってくる。
車が走るとその後を走ってついてくるんですな。
これも壮観ですが、それと地平線、丸いんですよ。これが。
日本なんかだとこれくらいの地平線が見えるくらい。
ところがアフリカはこう丸くなっている。
そこへ夕陽、こんなにでっかい夕陽が、真っ赤になって沈んでいく。
これを見たとき、死んでもええなと思った。
それを帰ってきて今先生に、
こんな、こんな、こんな夕陽が、こーんな地平線にズァーッと、
と言ってるうちに、それを聞いてた今先生が
「あんた、そらちょっと医者に診てもらえ」
そうしている間にも今先生はメモしてなさる。
それをまた作品に、自分がまるで観てきたみたいに書かれるんで、
「先生、そらかないませんな。行ってきたのは僕ですよ」と言うと、
先生はテーブルの下から、金をこうして
「ホレ、取材費」って、くれるんですな。

それからある日、当時参議院議員でいらっしゃって、
空港でお会いしたその時、顔が真っ青で、
「あのー」と言ったきり飛行機の音がグォーッとするまで何もしゃべらない。
「え、なんですか」って聞き返したあと言った。
「先生、ガンですってね」
すると、「ああ、ガンだよ」
何日か前に、石原慎太郎が今先生に言ったらしい。「先生、ガンですってね」
その時先生はガンだということを知らなかったらしいんですが、先生はすぐ
「ああ、オレはガンだよ」と言われたそうです。
そして僕に言うんですな。
「おい、オレはこのガンをとったらレバーみたいにして食ってやるんだ、三杯酢で。」
つられて僕も
「先生、やっぱり食うんなら二杯酢のほうがうまいですよ」って言うと
「オマエ、面白いこと言うね」って笑っておられました。
そう言っててもう亡くなられましたが、
あの人、本当に食べたらしいですな、自分の切り取ったガンを。

以下、さらに続く。

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