東京湾をゆく船-24(ガッシュ)

写真家の星野道夫さんの本を読んでいて、印象に残った文章がある。
(どの文章も印象深いのだけれど)

星野さんは10代の頃から、
すべてのものに平等に同じ時間が流れていることの不思議を思っていた。
都会で暮らしている自分と、どこかでヒグマが生きていることの不思議。
日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。
それを悠久の自然と言っても良いだろう。
そのことを知ることができたなら、
いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、
それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がする、
と言っている。
流れる二つの時間は二つの自然と言える、とも。

私がまだ家庭を持つ前で会社勤めをしている頃、つまり独身の頃、
夏の休暇というのはやはり特別な時間だった。
そして休暇がくると必ず決めていたことは
「普段見る、経験するものとは全く別の世界を見ること」
必然的に山へ出かけたり、テントを持って知らない田舎町へ出かけたりしていた。
そういう時間・空間に身を置くことによって、
普段の慌ただしい生活とは別の世界が存在するのだと、
今自分がいる世界はもっと広がりのある豊かな世界なのだと思えたのだ。
星野さんの時間の観念は「ああ、そうなんだなぁ」と、とても共感できた。
それは自然や動物らの悠久の時間だけではなく、
人間についてもまた同じことが言える。
しかし別の国や場所で、同じ時間が全く別の風景の中で流れている時間は、
自然のように必ずしも豊かで幸福なものではない。
生まれた国、場所の違いが生む人の運命の差はどこから来るのだろう。

よその国の不幸を知るにつけ、いつも無力感にとらわれてしかたがない。
でももう一つの時間、もうひとつの世界に思いを馳せることは、とても大事だと思う。
戦争なんかへの選択をしないために、自分たちにできることの一つだと思う。
話は少し飛躍するかもしれない。
朝鮮半島で今起きていることは、もとはいといえば
「同じテーブルについてつきあってほしい」くらいのことを言っていたのを
取りつく島も与えなかった米国の失策によっている。
あんな危ないものまで作るところまで放っておいてしまって、
この先どうするのだろう。
この国はいつまでたっても反省がなく、失敗の経験が生きない。
選択を誤ったことに気づく時、
いつも後戻りができなくなっているのはこの国だけではないだろう。
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多摩川風景
(ガッシュ)

部活以外の時間はスマホにどっぷりはまり込んでいるセガレたち。
なんとかモニタを覗き込む時間短くするよう、話してみたり、
そこから遠ざけるよう様々な策を凝らしてみたりしたけれど、
どれも効き目がなく、ハードルは軽々と越えられてなすすべがない。
小さなモニタの中にはない、「こんな生き方や人生もあるのだ」と
知るきっかけにでもなればと、何冊かの本を渡そうと思って思案する。
人に本を贈るというのは難しくて、こちらがどんなにいい本だと思っていても
まるで響かないことは多い。
薦められる本、ましてや親が進める本なんて、誰だって読みたくはないのだ。
やはり自分で探して出会うのが一番だと思うけれど、
彼らにその出会いを期待していては一生やってこないかもしれない。
おじさんになった時に出会って一念発起、それで家を飛び出したらこれは悲劇だ。
そんなことを思いつつ、何冊か選んでみた。

立花隆「青春漂流」
この本は立花隆が田中角栄の汚職を追って追って、首相退陣に至った後に
「自分はこんな男のために人生の大切な時間を浪費してしまった」と、
その無念と再出発のために書いたものだ。
当時アウトサイダー的人生を歩んでいた一風変わった、
しかし確かな足取りで歩く若者たちを取材したルポルタージュになっている。
書いた頃の立花隆も若いが、取材された人も若い。
家具職人、自転車のフレームビルダー、猿回し師など、多彩な分野の職人たちは
10年後は日本を代表するその道のエキスパートになっている。
彼らの若き日の苦闘を活き活きと活写している。
中でも若き田崎真也さんがチンピラ上がりのバーテンダーから
単身フランスやイタリアに渡って徒歩でワイン蔵を回り、
一杯一杯の味を覚えながら世界一のソムリエの座を射るまでの話が忘れられない。

もう一冊は小沢征爾「ボクの音楽武者修行」
ラグビーに明け暮れる少年が音楽への道を世界に求め、
自らスポンサーを探してスクーターを手に入れ、貨物船に乗って欧州へ渡ってしまう。
スクータにまたがり、音楽の都で腕試しをしながら、
ついにはカラヤンの弟子になってニューヨークフィルの指揮をするまでになって帰国する、
まさに音楽武者修行の一代記だ。
これも私が若い日に読んで、若い血が沸き立った本だ。

セガレたちはふだん本など全く読まない生活をしているので、
この二冊を読むことさえも疑わしい。
薦めたい本はいくらでもあるけれど、最初に書いた通り、
本というのは読者を選び、さらに出会いのタイミングを選ぶ。
人生の少し先輩としては、いい本に出会って、いい旅をしてもらいたいと思う。
旅というのはどこかに出かけてゆくだけではない。
「若い日の本」としたけれど、今読んでも体が熱くなってくる、
自分にとってこの二冊はそんな本だ。

本を渡すとちょっと照れくさくなり、
多摩川へスケッチブックを持って出かけた。
東京湾をゆく船-21(ガッシュ)

お盆の週末、TSUTAYAで「死刑台のメロディ」を見つけて借りてきて観た。
1971年のこの作品は、私的にはベン・シャーンの初期の作品、
「サッコとヴァンゼッティ」の連作を通して(少しだけ)知っていたのだけれど
日本タイトル「死刑台のメロディ」というのはどうもピンとこない。
「メロディ」とは主題歌を歌うジョーン・バエズの曲のことだろうか。
それとも背景に流れるモリコーネの音楽のことだろうか。
いずれにしてもストーリーともサッコとヴァンゼッティの二人とも関係はない。
おそらく、「死刑台のエレベーター」か「恐怖のメロディ」の下にいる
ドジョウを狙ってのタイトル名かと想像するけれど
事件の悲惨さと重大さを考えると、あまりに能天気な日本語タイトルである。
といって私も詳しくは知らないその事件を、映画で見たいと思って借りた。

ベン・シャーンの画は報道写真を元に淡々と描いたにもかかわらず、
受難の悲劇と、不寛容の傲岸を描いて余りある。
主役の二人は本人にも、シャーンの画にもそっくりだった。
ストーリーは1919年、
アメリカの暗黒時代と言われる赤狩りのずっと以前のことだ。
アメリカという国は「自由」という看板を掲げながら
暗黒の側面をずっと抱え続けてきた国だと改めて思う。
それゆえ血とともに流れた時間が、他国以上の分厚い民主主義を作っている。
にわかにデモをしたり、借り物の音楽にのせて怒ってみたりする日本とは
お話にならないほどの差がある。

製靴工場に起きた5人のギャングによる強盗事件の犯人として逮捕されたのは、
イタリア移民の靴職人、ニコラ・サッコと
魚の行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティだった。
裁判はは決定的な証拠もなく、
明らかなアリバイがあったにもかかわらず死刑の判決が出た。
当時世界中に裁判のやり直しと助命嘆願がされたものの、刑は執行された。
当時の、とくにイタリア系移民に対する偏見と、
貧困からアナーキストになった二人への社会の排除の力学を描いて恐ろしい。

ところで作品を見た翌日、アメリカのバージニア州で
白人至上主義団体と反対派が衝突し、死者が出る事件が起きた。
問題発言を毎日のようにはき出す米大統領は、
ここでも曖昧な表現で対応したために猛烈な非難を浴びている。
映画で見たばかりの100年前の事件がちらついてぞっとした。
日本のデモクラシーの先生は、このような暗黒の側面を持っている。
画家のノート

以前からこの本が欲しかったのだけれど、
長く絶版になっていて、一昨年あたりにようやく、しかしひっそりと再版された。
(現在ふたたび絶版)
定価が元々が5000円、復刊も6500円近い。
古書価格も同じくらいする、かなり高価な本だ。
活字が小さい上に400ページもある大著で、
はたしてこれを今読み切れるかと腰が引けてもいた。
たまたまネットに1500円で出ていたので、少し迷って購入した。
なかなか買えない本が安く出ていると、「読めるかな」と思っていてもやはり買ってしまう。
初版1978年当時の5000円はかなり高い。
矢内原伊作著「ジャコメッティとともに」はいまだ再版されない稀覯本だけれど
これは似た内容の「ジャコメッティ」(みすず書房)が出ていてすでに読んでいた。
にもかかわらずこれも以前、1500円でネットに出ていたのを見つけて買った。
初版時は1300円。1969年であればこれもまたかなり高いはず。
40年、50年後の6000円や4000円はむしろ安くなっているのだろう。
安西水丸著「青の時代」も新装版ながら3000円で買った。
割安で買ったことを自慢しているのはどうもみっともない。
しかし買った身にはやはりうれしいもので、
届いた封筒を開くときの気分といったらない。

「画家のノート」、ちょっと拾い読みしてみたけれど、
こういう美術書というのは作家ではなくて研究者が書いたり訳したりする。
そういう文章はとても読みにくいことが多い。
もちろん読解力の問題もあるが、それはたとえば学校で英語の授業の時に読み上げた、
いわゆる直訳のような硬直した言い回しに近いように思える。
「翻訳された文章を読んでそれがよくわからなかったり意味が通りにくかったりしたら
それはほとんどの場合、翻訳がおかしいのだ」と、
キャパの自伝を苦労して翻訳した沢木耕太郎さんが書いていた。
私はこちらの説を採る。

「画家のノート」冒頭は聞き書きしている執筆者(名前は書いていない)
の独白にはじまっていて、ここはとても読みにくそうだ。
しかし文章がマティスの言葉にうつると
「絵は1日の仕事で疲れ切った現代人の頭脳にとっての鎮静剤であらねばならない」
とじつに明快だ。
描く画家は明快な画を描いているつもりだったけれど、
ルノワールにマティスの絵は、よくわからなかったようである。
Blogを書き始めた頃にも書いたけれど、
そういうことを前提にルノワールはこうも言っている。
「私にはマティスの画はよくわからない。
 しかし、私に理解できないからと言って、
 それがマティスの作品の価値とは一切関係はない」
この言葉に以前、私はとても感動した。
さて、ようやく手に入れたこの本、おもしろければいいな。
読みかけの本があるので、順番はその後になる。
Le Havre
(ペン、インク)

最近、昔見た映画を何本か再見し、そのどれもがよかった。
映画を見るのは好きだけれど、それについて文章を書くのは苦手で難しい。
再見してやはりよかったので、忘れないように書き留めておきたい。
うち一本はアキ・カウリスマキ監督の「ル・アーブルの靴みがき」で
カウリスマキ監督にしては珍しい、明るいハッピーエンドになっている。

舞台となるフランスのル・アーブルに、
仲がいいのか悪いのかわからない移民たちが暮らしている。
ふだんはバラバラに生きている彼らのうち一人の靴みがきの男が
アフリカからの難民の子供をかくまったのをきっかけに一つになり、
その子を母親が住んでいると信じるイギリスへ向けて送り出す、というストーリーである。
シリア難民問題以前の作品だけれど、
移民、難民への風当たりはそれよりもずっと以前から強かったのだとわかる。
この問題について日本は物言える立場にも資格もない。
この監督の映画に出てくる人物はどれもがぶっきらぼう、
ストーリーもぶっきらぼうながら、じんわりとあたたかい。
近所のTSUTAYAではどういうわけかコメディの棚に並んでいるくらいで、
映画はけっして暗くはない(でもコメディでもない)。
監督は日本の小津安二郎監督を非常に尊敬していて、影響も受けていると言っているけれど
小津作品のように虫も殺さぬような善人ばかりが登場する非現実的な世界ではなく、
社会、それも多民族社会に置かれた一人の人間としてのリアリティがある。
再見したが、やっぱりよかった。
いい映画というのは繰り返し見てもやはりいい映画のことをいうのだろう。

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