先生の言葉で忘れられんのが、「まがいものにごまかされるな」
先生は晩年に、千葉(佐倉)の家じゃ嫌だと言って、
東京にマンションの一室を借りて住んでおられたんですが、
その部屋に易経の本が360巻、こうズラッと置いてある。
今先生はあれだけ自由奔放に生きてこられながら、ものすごい勉強をしておられた。
僕は先生というのは、大胆にして細心という所があったと思う。
易経というのは、秦の始皇帝がかかえた三千人の易者が、秒、分刻みで
その時、その時を占い、それを残したのが易経として残っているものです。
それが360巻になっていて、今先生は「オレは今、五巻まで読んだ。
あと355巻残して死んでいくことになるんだ」と言われ、
「易経に比べたら、四柱推命だの、手相だの人相だの血液型など、
 みんなマガイモノだ。ニセ物だ!」

またあるとき、
「血液型がどうして違っているか、それによってどう違ってくるのか、
 それがわかればノーベル賞が10個は来るんだ」
「血液型がAだけの世界になっても、Bだけの世界になってもOだけの世界になっても、
 人間は戦争して殺し合ってしまうが、A、B 、AB、O、
 これがそろっているから世界人類が滅ばず、
 ひとつの輪になっていることだけは間違いない」とも言っておられた。
よく血液型が利用されるのは、ひとの悪口を言うときです。
「あの人。エゴイストできっとB型よ」とか言っている人が
ひとの悪口を言うA型だと気がついていない。
「自分はA型で彼女がB型だからうまくいかない」
とか言うのが、最低の人間なんだと知っていただきたい。

皆さんはここにいる人も今、頭ン中で
「腹減ったな」
「藤本、あいつ女房とうまくいっとんやろか」とか、
「どんなふうにセックスしとるんやろか」とか考えてる人もいるに違いない。
今笑ったひとにきっといるはずやな。(笑)
人間の脳っていうのは52のブロックに分かれていて、
140億の細胞がそれぞれに分配されているんです。
その細胞の中が動きやすい状態にある。
それがバカになると、マーボードーフのようになってしまう。
脳のために一番よくないのは頭を温めることで、一番悪いのがサウナなんですな。
一度入ると根性みたいにあの暑いところでがんばるわけですが、
あれをやっていると、脳がマーボードーフになってくる。
ゴルフ帰りにサウナに入ってるが、あれは老人性痴呆症になるんですよ。
サウナから出たときにクラッとなるやつ、あれはあとで必ず後遺症が出る。

今先生は動物と人間の違いを見ろと言われたんですが、単純な動物ほど敏捷でね。
ミミズやムカデなんか、こう、光や音を立てただけでもサーッと動く。
ムカデなんか、切っても動いているのは、背中に脳があるからなんですよ
人間あんなに足があったらたいへんですねぇ。
3本目の足から110本目の足に水虫がうつったとか。(笑)
ムカデの足、最高何本あると思いますか。
これは北海道のムカデで、176足(注:136足だったか記憶あやふや)もあるのがいる。

みなさんも脳はくれぐれも温めないように。
そして空腹感と同じように空頭感を持ってほしい。
うちに近所の学生が来たりするんですが、彼らが来るのは酒を飲みに来るんですな。
ニッカやサントリーを出すんですが、ビンはスコッチのに入れて(笑)
「そうかそうか」って注いで、
「ハァー、スコッチですか、うまいもんですねぇ」(笑)
いいですか、こいつらは文学部なんです。
「君ら、どんな本読んでるンや」
「サマセット・モームなんかです」「へぇ、翻訳で」「いや、原文です」
「ほほー、どんな作品?」「月と六ペンス、それに・・・」
「どのくらい読んだの」と聞くと「このくらい」て指を広げて見せるんですな。
それが本の厚さと思って感心していると、
本の厚さでなく行数なんですよ、学校の教材に出てくる。
それで「君ら、いつ本を読むんや」て聞くと、
「ヒマになったら読みます」て言うんで
「君らヒマになったらめし食うんか」て聞くと、
「そうですねぇ、ヒマになったらねぇ」とまた考えるんですな。
もうバカですよ。
「ヒマになったらメシ食うんか」て皮肉言うとるのに、そいつら考えとるんですな。
60歳過ぎてからヒマになって、「漱石の『それから』、どうやった?」って、
どうしようもないですな。
皆さんも空腹感と同じく空頭感を持って、
これから家へ帰ってからでも本を読んでください。



これまで人生で経験してこられたり吸収した知識の海を、
縦横無尽に行き来した濃密な20分、
あっという間の時間だった。
そのあと、高座から降りた作家は来場者の中へ入っていった。
義一さんは「これから皆さんに上物のマリファナを配ります」と言って
インド土産の細巻きの葉たばこを一本ずつ配り、新野新さんが火をつけて回っている。
一番前のおっちゃんが「おお、これはうまい!」と煙をぷっかりはき出し、
「これもやらせでんな」とニッコリ振り返った。
義一さんはこうも付け加えた。
「人生のうち、ちょっと身体が空いたなら、きっとアフリカへ行ってみなさい」

30年後、アフリカはもちろんのこと、世界全体が紛争地帯化してしまっている。
「こんな夕陽が、こーんな地平線にズァーッと」沈むのを見るのは現在、
行くだけでもある意味命がけである。
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藤本義一_4

その後、僕が「みみずく説法」「悪名」なんかを脚色したとき、
(映画)会社で原作料を今先生のところへ持って行かされたんですが、
(昭和)36年当時、50万円の札束を、こう新聞紙に包んで行くんです。
ひとりでですよ。
「落とすなよ」て会社で言われて、
「盗られんやろか、落とさんようにせな」とおっかなびっくり八尾駅まで来て、
駅の便所へ入ったんです。
女子便所、つまり大便所のほうに、その中に入ってその札束をバラッとやると
札の持つ、あの金属質の臭いがするんですな。
「ああ、これがええな、この臭い」
当時は千円札がいちばん高額紙幣ですから、これぐらいの厚さがあるんですよ
(親指と人差し指をひろげて)。
「これ持って逃げたらどないなるやろ」とか(笑)。
そして天台院へ行って、テーブル越しにその札束を渡すと、
バサッと、身体の横へ置くんですな。
これがやりたかった。おれもやりたいなと思ってましたね。
その時も「どこか行ってきたか」て聞かれて
「はあ、マニラへ行ってきました」
「なに、マニラ?!あそこは大東亜共栄圏でまだ外国とは言えん。それではダメだ」
それからアフリカへも行きました。昭和47年でしたかな。
行く前に今先生にお会いしたんですが、
「これからアフリカへ行ってきます」
予防接種を7本打って、左腕が丸太みたいに腫れ上がって、
そう言うと、
「ナニ!お前本当に行くのか」
「はい、これから行ってきます」
「そうか、帰ってきたらオレにしっかり話すんだぞ」(笑)

先生は動物と人間の違いを見てこいと言われたんですが、
アフリカにイボイノシシというのがいる。
イボに見えるのが、これが実はダニでね。
それが大草原をズァーッと走ってくる。
車が走るとその後を走ってついてくるんですな。
これも壮観ですが、それと地平線、丸いんですよ。これが。
日本なんかだとこれくらいの地平線が見えるくらい。
ところがアフリカはこう丸くなっている。
そこへ夕陽、こんなにでっかい夕陽が、真っ赤になって沈んでいく。
これを見たとき、死んでもええなと思った。
それを帰ってきて今先生に、
こんな、こんな、こんな夕陽が、こーんな地平線にズァーッと、
と言ってるうちに、それを聞いてた今先生が
「あんた、そらちょっと医者に診てもらえ」
そうしている間にも今先生はメモしてなさる。
それをまた作品に、自分がまるで観てきたみたいに書かれるんで、
「先生、そらかないませんな。行ってきたのは僕ですよ」と言うと、
先生はテーブルの下から、金をこうして
「ホレ、取材費」って、くれるんですな。

それからある日、当時参議院議員でいらっしゃって、
空港でお会いしたその時、顔が真っ青で、
「あのー」と言ったきり飛行機の音がグォーッとするまで何もしゃべらない。
「え、なんですか」って聞き返したあと言った。
「先生、ガンですってね」
すると、「ああ、ガンだよ」
何日か前に、石原慎太郎が今先生に言ったらしい。「先生、ガンですってね」
その時先生はガンだということを知らなかったらしいんですが、先生はすぐ
「ああ、オレはガンだよ」と言われたそうです。
そして僕に言うんですな。
「おい、オレはこのガンをとったらレバーみたいにして食ってやるんだ、三杯酢で。」
つられて僕も
「先生、やっぱり食うんなら二杯酢のほうがうまいですよ」って言うと
「オマエ、面白いこと言うね」って笑っておられました。
そう言っててもう亡くなられましたが、
あの人、本当に食べたらしいですな、自分の切り取ったガンを。

以下、さらに続く。
藤本義一_3

放送作家の永六輔さんが亡くなった。
作詞だけ見ても
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」
「こんにちは赤ちゃん」
「遠くへ行きたい」
「いい湯だな」「黒い花びら」「帰ろかな」
やはり天才だ。
東日本大震災のあとにCMとして流れた、
「見上げてごらん夜の星を」の歌が、当時胸に染み入ったことを思い出す。
それほど時を置かず、熊本県が被災地になるとは誰も思っていなかった。

たまたま、おなじ年代の西の放送作家、
藤本義一さんについて最近書きかけていた。
「藤本義一さんと今東光のことを、そのうちに書きます」、
前に書いていながらそのままになっていたことを
最近「あの話は?」とのコメントをいただいたので
今頃になって古いノートのページをめくったのだった。
大阪のトークショーで話された時の聞き書きであり、
今から30年前の話である。
作家の今東光や藤本義一ファン以外にはつまらない話かもしれないことを
先にお断りしておきます。(以前書いた藤本義一さんの追悼文はこちら
自画自賛になるけれど、これだけのことをメモもとらずに覚えて帰ってきたことは
若かったとはいえちょっと褒められそうだ。
3回に分けたけれど、それでも長くなりそうだ。

1980年代から20年以上の長きにわたって、大阪ミナミの料亭「暫(しばらく)」にて
関西放送作家の会メンバーが手弁当でやってきて、
「ぶっちゃけトークの会」というトークの会を、毎月一度開いていた。
今、その痕跡はネット上にもほとんど見当たらない。
関西の放送作家の遊び心と良心みたいなものを、せめてここに記録しておきたい。

以下、当時の日記からの書き起こし。



1985年10月26日、友人と映画を見たあと別れた私はひとり、
大阪のミナミは宗右衛門町にある料亭「暫(しばらく)」ののれんをくぐった。
(今調べたら、正確には南区畳屋町だったようだ。
 この後、数年と経たず、ビルに改築されてしまったらしい)
24歳の浪人生が料亭に縁のあるわけもなく、
その日は夜、そこの二階で関西の放送作家が集まって主宰する、
「ぶっちゃけトークの会」というトークの会を聞きに来たのだった。
入場料は1000円、入口で料金を支払うとともに、
その日やってくる作家に話してほしいお題のリクエストを、
小さなリクエスト用紙(といってもただのわら半紙を切ったもの)に
書いて渡すというシステムになっていた。
(前にも書いたけれど)この会は、藤本義一さんが映画界にいた若い日に、
黒澤明監督が映画界を目指す若者を集め、
監督の口から生の言葉を聴いた時の喜びが原点になっている。
まだ駆け出しの放送作家だった義一さんにとって雲の上の存在だった黒澤監督が
目の前で語ることをただのひと言も聞き逃すまいと、
それこそ全身耳になって聞き入ったその夢のような経験を、
自分が今ささやかながら後進の若い人たちにも提供したいとの思いではじめられたものだ。
ただ実際は、藤本義一さんや新野新さんといった
TVやラジオでおなじみの人気作家に会うためにやってきたのは妙齢の女性が多く、
作家志望の若者、とくに男性は少なかったようだ。

初めてその会にやってきた私は、
自分の書いたお題について、なんとか義一さんにしゃべってもらいたかった。
それで、出演する6人(そのほか、新野新、中田昌秀、杉本守など)のうち、
義一さんだけが交流を持っていると思われる、「今東光について」と書いたのだった。
時間になって会場に現れた6人の作家はそれぞれ何枚かのお題の書かれた紙を手にしていたが
義一さんの手には一枚だけが握られていた。
その紙は、私が書いたものであるに違いないと思っていた。

最初に登壇したのはたしか、中田昌秀さんだったと思うが、
当時テレビ制作で問題になっていた「やらせ」についての話で始まった。
今も昔も変わらないものだ。
TV番組はスポーツとニュース以外、やらせのまったくない番組は一切ない。
現在、原発事故の時にはそれさえ疑わしくなってしまった感はある。
ちなみに会場の料亭「暫」は、主宰作家のひとり、中田昌秀さんのご実家だったと思う。
中田昌秀さんは「てなもんや三度笠」や「ヤングおー!おー!」の制作に携わった方だ。
その後、さまざまなお題を持って登壇した作家は、
放送作家らしくそれらをとてもうまくつなぎ、
オチまで持って行く手際には感心した。
義一さんは最後に高座に現れたが、手にしていたお題ははたして私の書いたものだった。


えー、奈良市ツルマイ、タブロウ君の「今東光について」ですが・・・

僕が今先生に初めて会ったのが、昭和31年の大阪府立大学にいた頃ですが、
その時に八尾の天台院におられて、よくおじゃましていました。
それで就職の年になりまして、
「おい藤本、おまえは何になるんや」と言われて、
僕は「作家になります」と言ったんです。
「作家がどんなもんかおまえわかっとるのか。どうして就職しない」
「僕は作家になりたいから会社員にはなりません」
「社会へ行けばそこに居る人間が見れる。そこで社会の側面を観察せよ。
 世間を知らずして何が作家だ」
ところがそれでもがんばって、
その時卒論を書いていたんですが、その中で「定年退職」を扱っていて、
当時僕は、定年の意味がよくわからんかった。
「定年」というのは会社が決めたルールであるが、
「退職」というのは自分の意思で会社を辞めることである。
だから「定年退職」というのはおかしいと考えていました、そう言うと、
「面白いこと言うな」と言われ、ついに就職せずにいまして、そうすると
「おい、ギイチ、それなら世界を見てこい。
 それもオレの行っていないところへ行ってこい。
 まずアフリカへ行け。アフリカへ行って動物と人間との違いを見てこい。
 その次は南米ペルーだ。
 その次はスペイン、その次はーーー」
と言われて、あっけにとられて聞いていました。

以下続く。
やなせたかしさん逝去の報が全国に伝わったのは、
大型の台風が列島を駆け抜けた15日、実際に亡くなったのは13日だったそう。
今の子どもを含む若い世代は知らないものはまずいないと言ってもいいのだろう。
これほどに愛されたキャラクターを作り出した人は日本にそう多くはいない。
子を持つ親にとって、アンパンマン、トーマス、ドラえもんにサザエさんなど、
子供に安心して見せられる作品の存在は何よりありがたいものだった。
私自身はもちろんアンパンマン世代ではないが、
享年94歳だったのだからもっとなじみがあって良さそうなものだ。
そうでないのは、やなせさんが漫画家・イラストレーターとして脚光を浴びたのが
70歳に近い超遅咲きだったからだ。
やなせさんが尊敬した手塚治虫は亡くなってずいぶん経つが
やなせさんの方が9歳も年上だった。

仕事柄、やなせさんが若い時に三越百貨店宣伝部にいて
猪熊弦一郎画伯のあの包装紙デザインに関わったことはエピソードとしては知っていた。
えんじ色のベタ面の所に小さく入っている
「Mitsukosi」の筆記体文字がやなせさんの手によるレタリングで、
それは今も目にすることが出来る。
やなせさんの絵の色合いやコスチュームのデザインが洗練されているのは
長くデザインに携わっていたことにも由来するのだろう。

私が忘れられない絵本は「やさしいライオン」だ。
(というか、やなせ作品はこれとアンパンマンしか読んでいないのだけれど)

やさしいライオン

フレーベル社からの刊行が1975年だが、当時読んだとすると中学生だったことになる。
なのでひょっとすると、見たのはTVのアニメーションだったかもしれない。
アニメの方は、手塚治虫が自身のアニメ作品に関わってもらった御礼として
虫プロ、というより手塚治虫のポケットマネーで1970年に制作したものだ。

老いてゆく母がわりの犬と猛獣として成長してゆくみなしごライオンの
悲しくもやさしすぎる物語は今思い出しても胸にぐっとくるものがある。
自分に将来子供が出来たらぜひ読ませてやろうと思っていたが
子供ができて、さて本を買うかと開いてみると、あまりの切なさに棚に戻してしまった。
しかしラストに至るまで美しい絵と物語がまったくゆるぎのない傑作だと思う。
やなせさんの絵のキャラクターは本作に限らず逆光の中にいるシーンが多い。
絵本のアンパンマン第一作は全編斜め後ろからの逆光を浴びている。
これはやなせさんのせつなさの美意識の現れだろう。

やなせさんは兄を特攻隊で亡くしてるせいもあって、強い反戦感情を持ち続けたそうだ。
70歳を過ぎて花開いた人生から紡ぎ出された言葉は示唆に富み、味わい深い。

 正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
 正義は或る日突然逆転する。正義は信じがたい。

 困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、
 立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。

 もっと若い時に世に出たかった。
 ただし遅く出てきた人というのは、いきなりはダメにならない。
 こんなことしてていいのかと思っていたことが、今みんな役に立ってる。
 無駄なことは一つもないですね。

私にはこの↑言葉の方がありがたい。
そして最晩年のとぼけた詩も楽しい

 老年ボケやすく 学ほとんど成らず
 トンチンカンな人生 終幕の未来も なんだかヤバイ
 それでも笑って ま、いいとするか
やなせたかし 幸福
河内山本駅にあった小さな古本屋(名前は忘れた)主人の今東光の思い出話は
「和尚(おっしょ)はんには月に一度の逮夜日に拝んでもろたぐらいのつき合いでっけどな、生きてはったら会わせたんねやけどなあ。」と始まった。

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