NYの名画座

引き続き1991年の旅先アメリカでの話。
アメリカへ来たなら映画館へ行ってみたいと思って、
ぴあのような情報誌で調べてみると、
ビレッジの方で「風と共に去りぬ」をやっていた。
この名作なら字幕なしでも大体わかるだろうと思って出かけた。
小さな劇場は、地下鉄を乗り継いでやって来たマンハッタンのはずれ、
という感じの場所にあった。
どんなに小さく寂れていても、日本のように通路で便所の匂いはしない。
今では日本のシネコンなんかで当たり前になったけれど、
ロビーにある映画館のスタンドバーにアメリカの香りがした。
一人で酒は飲まないのでコーヒーを注文した。
不思議に思うのだけれど当時海外では
コーヒーを冷やして飲む習慣は一般的でなかったように思う。
缶コーヒーもない。今はどうだろう。
味の問題かとも思ったが、
先日TVでコーヒー好きのイタリア人に缶コーヒーを試飲させたら
「おいしいね」と言っていて、これはこれで驚いた。

館内はガラガラで、
板張りの床や狭い通路を照らす古い電灯から異国の香りが立ち上っていた。
前の席にはアレックス・ヘイリー(「ルーツ」の作者)似の大きな黒人と
痩せ型の白人、どちらも初老の男性が空の座席一つを挟んで座っていた。
映画の内容よりも覚えているのはこの二人のことだ。
二人は全くの他人のようで、映画が終わるまで顔も合わせなかった。
映画が終わると二人は少しの間、
今見た映画についての意見のやりとりをしていたが、やがて別々に出て行った。
私の語学力ではとても内容まではわからなかったけれど、
穏やかな会話からは、
印象に残ったシーンについてお互いの感想を話しているようだった。
映画にはには奴隷制時代の黒人が出てくる。
その映画の感想を隣の他人、しかも黒人と白人とでと語り合う、
あまりにもおおらかな風景が、「アメリカの風景」として忘れられない。
今にして思えばこれは大きな国のほんの1カットであり、
「NYの風景」と言ったほうがいいのだろうな。
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選挙で選ばれた大統領なら、あそこまで支えないとだめなものか。
言葉の応酬ならまだ喜劇で、
となりの祈りを認めない宗教が極端に走ると悲劇が起こる。
もう本当にたくさんだ。
災害でもう十分人は死んでいる。
人間同士で殺しあうことはないじゃないかと思う。

50cent

2年ぶりにこのお題を再開。
他人が興味を持つとも思えない、全くの独り言だ。

私の弟は専門学校卒業後、すぐに渡米した。
歯科技工士として10年、途中曲折を経てNYにラボを開業していた。
その弟を訪ねて、初めての海外の旅の最後に欧州からNYへ渡ったのが1991年。
わずか3週間の居候の間に見て感じた、しかも小さなことが、
今も強い印象で残っている。


当時弟が住んでいたクイーンズ地区は、よく知られている移民街だ。
マンハッタンとはクイーンズブリッジでつながり、
ビル群を背景にした有名な風景は映画「マンハッタン」で美しく撮られている。
監督のウディ・アレンはこの街で育った。
弟の仕事場はマンハッタンにあり、毎日昼間は私一人で時間をつぶしていた。
朝起きると食パンにスクランブルエッグとレタス、
オレンジジュースが毎日の献立。
卵、ミルク、オレンジジュースの安さには感動した。
しかも紙パックは皆2リットル入りで、日本にはない大きさだ。
家賃も探せばかなり安いところはあり、日本よりはかなり広く壁も厚い。
「衣・食・住」が自分のサイフに合わせて得られることは
外からやってきた者にとってとりあえずは暮らしやすいと思うだろう。
ちなみに弟は毎日、米を炊いて食べていた(カリフォルニア米はうまい)。

食後、時々コインランドリーへ出かけた。
ハイティーンの少年少女達がたむろしている中に入ってゆくと、
日本の1.5倍はありそうな大型の洗濯機が並んでいる。
コインの投入部の構造が日本とは違うアメリカ製機械の使い方に戸惑っていると
見慣れないアジア人に興味を向けていた彼らが
「こうするんだ」「ここにコインを入れるんだ」と教えてくれた。
「サンキュー」とお礼を言うと、「いいんだ」と言って向こうを向く。
そばにいた彼の女友達たちと顔を合わせてちょっと恥ずかしそうに笑っている。
欧州で出会ったアメリカ人の明るくフランクな印象とは違っていたのは
彼らもまた、移民として日が浅かったからなのかもしれない。
初めてのアメリカで、朝の風景は卵やオレンジジュースの美味しさと安さ、
シャイな少年達のイメージで始まった。
9.11の10年ほど前のことで、アメリカの移民社会ははまだずっと明るかった。
高田馬場高架下(ペン)

友人と久しぶりに会った。
高田馬場という珍しい場所で、関西人にはうれしい串カツ屋にて8ヶ月振りの再会。

30歳になるかならないかの頃(90年前後か)、
東京に転勤してきた友人とその夜二人して銀座の山野楽器ににいた。
男二人で銀座とは、おそらく映画の帰りだったのだろう。
当時も今も、銀座に行く用事とはまず映画以外にない。
六本木WAVEが当時の先端を行くCDショップなら、
山野楽器は、品揃えとセンスでやはり老舗の風格があって
銀座に出たら必ず寄っていたCDショップだった。
(ちなみにここは今もまだ健在)
その日店内の客は少なく、おそらく閉店時間も近かったのだと思う。
二人並んでLDだったかCDだったかを物色していたら、
アメリカ人に声をかけられた。
ちなみに当時はまだDVDはなくて(!)、
販売メディアがVHSかLD(絵の出るレコード「レーザーディスク」)だったとういうのは、
たかだか25年ほど前のことなのに隔世の感がある。

ところでアメリカ人のおじさんは、
「ミスサイゴンはどこに置いてあるのだろうか」と我々に英語で聞いてきた。
おじさんを案内したのは英語に堪能で、Sellメディアにも極めて明るい友人で、
実はおじさん、たいへんなミスサイゴンフリークスだとわかった。
ブロードウエイはもちろん、世界中の舞台を見て回っているのだという。
こういうマニアは意外に多くて、たとえば劇団四季のミュージカルを
日本全国で見て回っている人が友人の同僚にもいるそうだ。
同じ演目でも演じる役者が違っていたり、脚本が少し変わっていたりするらしい。
その違いを楽しむという贅沢な趣味に驚いたものだ。
しかしおじさんの場合は世界を股にかけていてスケールがちょっと違う。
再度話を戻しておじさん、ミス・サイゴンを世界中を見て回ってきたが、
日本の本田美奈子の舞台は、世界中で最も素晴らしかったと絶賛していた。
海外作品を日本人が演じて、さらにはるばる海外からやってきた目の肥えた観客が、
本場のブロードウエイよりもよかったと直に聞くのは
何ともうれしく、誇らしかった。
まったく惜しい女優を亡くしたものだ。

ところがミュージカル好きでサイゴンおじさんを案内した当の友人は、
この日その話を私から聞いても、
まったく覚えていないのにはもっと驚いた。
多摩川のシルエット
(ペン、インク)

川のシルエット、というのもおかしな言い方だけれど、
ペンもインクも青一色で描くとそんな感じになる。
早くも今年最高気温となった週末、
なんども描いたこの橋の上からの風景をまた描きに出かけた。
そういえば、青のインクと一緒にセピアも買ったことを思い出した。
セピアだけを仕事場の棚に並べて置いたら、大きな地震が来た。
揺れて落ち、ビンが割れたのは6年前の東日本大震災のこと。

以下は5日のこどもの日に書こうと思っていたこと。
子どもの頃、収集癖があった私は大事なものが手に入ると
それを棚の上に飾ったりせずに、缶などに入れてどこかに埋めた。
まるで犬のような癖だけれど、一週間もすると掘り返して
今度は壊れるまで遊び倒すのだった。
大事にしているようで消費は早く、どれもきれいに残っているものは無い。
それでも当時から今も大事に残しているものはいくつかある。
あるとき、特に大事にしていたキャラメルのオマケのカードを
やはり薬の缶に入れて家の前に埋めた。
団地の周りは芝生が植えられていて、
さらにその周囲にはセメントの杭が突き出ていた。
缶はその杭の横に穴を掘って埋めたのだった。
「宝ものは何番目の杭に埋められている」と物々しく紙にメモしたが、これをなくした。
しかし、たった一つの数字くらい忘れるはずがないと高をくくった。
そのまま何週間か過ぎ、ある日ふたたび掘り出しにかかった。
見つからない。
兄弟総動員してそのあたりにある杭すべて掘り返したが、見つからなかった。
近所の悪ガキの顔を思い浮かべて「あいつが掘ったか」と疑ったりしたが、
やはりわからなかった。

月日は流れ、水道管の工事のため、
そのあたり一帯をパワーシャベルで掘り返す工事が始まった。
私はその場にいなかったのだけれど、
弟がその工事の様子ををじっと見つめていた。
シャベルが何度目かの土をすくい上げたとき、「あっ」と声を上げた。
すくい上げた土の中からぱらぱらと白いカードがこぼれ落ちたのだ。
それは私が以前そこに埋めて見つからなくなったあの宝物だった。
子供のこと、工事を止めてくれと頼むこともできず、
弟は掘り返した土の上に飛び降り、そこに落ちたカードだけすばやく拾った。
工事のおじさんは「こら、危ない!」と怒っただろう。
弟は一目散に家へ駆け戻ってきた。
その夜一部始終を聞いた私は「持つべきものは兄弟」と感動した。
さらに、自分がその場にいたら工事を止めてもすべて回収したのになぁ、
と残念にも思ったものだ。
そのカードは以後埋めたりせずに、今もしっかり持っている。
(コレ↓)
トコちゃんキャラメルおまけカード(森永トコちゃんキャラメル おまけカード)
1982年頃の大阪市中央卸売市場
(水彩にカラーコンテ)

東京の卸売市場のことが話題になるにつけ、大阪の中央市場のことを思い出す。
蔬菜部(野菜市場)で20歳頃に働いていたのは、もう35年も前のことになる。
鮮魚ではなく蔬菜を選んだのは、魚は朝が野菜より2時間近く早く、
学校に通うにはちょっと無理がありそうだったのが理由だったように思う。
記憶の中に残る場内の風景は10年くらい前のようにはっきりしているのだけれど
それを画にしようとすると、途端に輪郭がぼやけてくる。
市場の建物は10年以上前に建て替えられてしまっていて
実際にこの目で見ることはもうできなくなってしまっている。
(ちなみに建て替え費用は1300億円だそうで、
 それでも当時は高すぎるんじゃないのかとの声あり)
検索の仕方がまずいのか、建て替え前の施設の写真をネット上に見つけることができず、
私が持っている唯一の写真もモノクロの一枚きり。
ここを離れて10数年後、帰省時に立ち寄った時に撮ったもの。
その頃凝っていたモノクロ写真で撮影してしまったのが今は悔やまれる。
もう見られないから画にしたい。
休日以外の朝は荷を運ぶトラックと労働者がひしめき、
じっと立っているとはじかれそうな活気がたぎる食材の町。
ただ、私の記憶にある風景は温かく、懐かしい。
野田の町を離れて数年後、市場は映画ブラックレインのロケ地にもなった。
猥雑、オリエンタル、ラビリンス、
それらは外国人の「フシギの国・日本」への想像力の入り口だったようだ。
そういえば、ブレードランナーも大阪っぽい。

市場は中之島の西の端から川を隔てて対岸に位置する。
そう考えると中之島というのは長くてパリのシテ島に似た感じにも思える。
ただ、市場の正面口から中之島を見たという記憶が全くないのはどういうことだろう。
市場の左岸を流れていた大きな川が安治川だったというのは、地図を見ながら今知った。
淀川の支流、大川を市役所のある東の端で二方に割り、
再度西側で合流したところで再び2つに分かれ、
右に安治川となったところに市場はある。
一度学校の帰りに、大阪湾の海の見えるところまでバイクで出てみようと
町を通り越して西に向かったことがある。
海まですぐ目と鼻の先のはずだけれど、これがなかなか出られない。
日はすでに暮れてどこまで行っても黒々とした工場の町が続いている。
今、工場は警備灯が不夜城のように輝き、
その夜景は函館よりも美しかったりする。
しかしその頃その辺りの工場の夜は、暗い街灯に沈む闇の中だった。
焼けた金属くさい空気、抜けられない道、
スチールウールの塊のようにもつれた町だった。
今地図を見ると、同じ場所には「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」とある。
安治川挟んで対岸には天保山の水族館、海遊館もある。
夜の底にひろがっていた黒い工場群は、どこに行ってしまったのだろう。
あの日、夜の工場の闇の中でぐるぐる走り回って抜けられなかったのは
今となっては夢の中のラビリンスになっている。

Tag:Landscape Paysage 風景画

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