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寝屋川焼け跡
(オイルパステル)

戦争を知らない私が見た、忘れられない戦争の風景がある。
私が子どもの頃、といっても小学校の頃だから
昭和40年代後半の頃に私が見た、大阪の中心部に実際にあった風景である。
その頃、夏休みや冬休みには必ず、大阪の祖父母の家へ泊まりに行った。
近鉄奈良線から鶴橋で大阪環状線に乗り換え、
京橋でさらに京阪線に乗り換えて枚方まで行く。
途中、森ノ宮駅から京橋へ入って行くところ、
その頃はまだなかった大阪城公園駅を過ぎたあたり、
今の読売放送社屋の前あたりに突然、黒く焼け焦げた風景が広がっていた。
戦後20年を経てもなお、草も生えていなかった。
太平洋戦争時に被災した空襲の跡が
20年間も放置されていたのは、どうしてだったのだろう。
ちなみに前回の、野見山暁治さんらが戦没画学生の遺族を訪ねる旅をはじめたのは
それからさらに10年後のことだ。
ネットでは、大勢の犠牲者が出た京橋駅の空襲についての詳細な手記が出ている。
そこからほど近いここの土手も、同じ空襲で焼かれたものと思われる。

これはひょっとして幼い私の思い込みで、
実際は空襲ではなく、火事か何かの焼け跡だったのだろうか。
「ここはなに?」と聞いたとき、母は「空襲のあとやで」と私に言った。
だとすると、レンガや立木、地面にいたるまで焼き尽くされた黒焦げの土地が
この土手沿いに、焼けて手つかずのまま残されていたのはなぜだったのだろう。
通勤に環状線を使う人は、
まだ煙がくすぶっていそうなその風景を見て、どう思っていたのだろう。
毎日見ていればただの通り過ぎる風景になるのだろうか。

高度成長期からオイルショックの時代を経てなお放置された異様な風景は、
ネットのどこかに出ているんじゃないかと、ずいぶん探してみたものの、
とうとう見つけることができなかった。
焼け跡はある年に突然工事が始まり、たしかそこに日本生命ビルが建った。
それから何度か建て替えがあり、現在は読売放送社屋が建っている。
今、このあたりは「ビジネスパーク」と呼ばれているそうだ。
下のストリートビューは現在の風景だ。
私の記憶では、実際は上の画よりもあらゆるものがもっと黒く焦げていて、
黒い地面にパラパラと残っていたレンガの破片もわずかだった。
あそこを掘り返せば、今でも黒い地面と焼けたレンガが出てくるはずだ。
今となっては悲惨と言うよりも、私の中では夢のような風景になっている。

寝屋川縁
(googlemapより)
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NYのリス
(NY、弟の部屋の窓にやってきたリス)

ひと月ほど前、秋に入ったというのでラジオでキノコについてしゃべっていた。
秋の味覚はスーパーで買うより山へ出かけて、
自分の手で摘み取ったものを食べた方がうまいに決まっている。
ところが一つ間違うと毒にあたる。
しばしば命に関わるから、食いしんぼにとっては旬の味も命がけだ。

最近NHKのタモリの番組で黒部ダムを特集していて懐かしかった。
ダムから3時間ほど歩いたところに、主に渓流釣り客を泊める山小屋がある。
私は以前、後立山を縦走したときに針ノ木から下って、その平の小屋へ泊まった。
その夜、泊まり客がまだ若い3代目のオヤジを囲んでいろいろな話を聞いた。
オヤジさんの話はたいへんに面白く、しかも尽きることがなかった。
その翌朝、食卓に出されたキノコの醤油煮がびっくりするほどおいしかった。
初めて見るそのキノコを黒部では「キツネの茶袋」と言い、
ウズラよりもまだずっと小さな卵形をしていた。
淡白で、しかも山の日陰の香りがする珍味だった。
オヤジさんは、「キノコの毒は品種ごとに決まっているものではない」と言う。
毒がないと言われているキノコも、別の斜面では毒を持つことがある。
地元の人に聞かないと安全ではないのだと。
以来、山で山菜は採ってもキノコは採ったことがない。

星野道夫さんのエッセイに、キノコにまつわる面白い話がある。
結婚して奥さんがまだアラスカの家に来たばかりの頃、
家の庭にレタスやイチゴを育て始めた。
イチゴがそろそろ食べごろになり、明日は摘もうと思ったその朝、事件は起こった。
イチゴは先に誰かに摘み取られてしまったのである。
摘み取られた近くには、どういうわけかキノコが一本転がっていた。
奥さんはがっかりして次のイチゴの収穫を待った。
ところがそのイチゴもまた待っていたかのように、収穫しようとした日に摘み取られていた。
そして後には「そのかわりに」といった感じでキノコが一本置いてあったのである。
そういうことが何回か繰り返された後、
奥さんはついにその犯人がイチゴをくわえて走り去るのを目撃する。
それは家の近くに住むリスだった。
キノコを抱えて走ってきたリスはここで、おいしそうに熟したイチゴを発見する。
どちらにしようか迷った末、
手にしたキノコを置いてイチゴを持っていったようだ。
星野さんはそれがおかしくてならない。
NYの名画座

引き続き1991年の旅先アメリカでの話。
アメリカへ来たなら映画館へ行ってみたいと思って、
ぴあのような情報誌で調べてみると、
ビレッジの方で「風と共に去りぬ」をやっていた。
この名作なら字幕なしでも大体わかるだろうと思って出かけた。
小さな劇場は、地下鉄を乗り継いでやって来たマンハッタンのはずれ、
という感じの場所にあった。
どんなに小さく寂れていても、日本のように通路で便所の匂いはしない。
今では日本のシネコンなんかで当たり前になったけれど、
ロビーにある映画館のスタンドバーにアメリカの香りがした。
一人で酒は飲まないのでコーヒーを注文した。
不思議に思うのだけれど当時海外では
コーヒーを冷やして飲む習慣は一般的でなかったように思う。
缶コーヒーもない。今はどうだろう。
味の問題かとも思ったが、
先日TVでコーヒー好きのイタリア人に缶コーヒーを試飲させたら
「おいしいね」と言っていて、これはこれで驚いた。

館内はガラガラで、
板張りの床や狭い通路を照らす古い電灯から異国の香りが立ち上っていた。
前の席にはアレックス・ヘイリー(「ルーツ」の作者)似の大きな黒人と
痩せ型の白人、どちらも初老の男性が空の座席一つを挟んで座っていた。
映画の内容よりも覚えているのはこの二人のことだ。
二人は全くの他人のようで、映画が終わるまで顔も合わせなかった。
映画が終わると二人は少しの間、
今見た映画についての意見のやりとりをしていたが、やがて別々に出て行った。
私の語学力ではとても内容まではわからなかったけれど、
穏やかな会話からは、
印象に残ったシーンについてお互いの感想を話しているようだった。
映画にはには奴隷制時代の黒人が出てくる。
その映画の感想を隣の他人、しかも黒人と白人とでと語り合う、
あまりにもおおらかな風景が、「アメリカの風景」として忘れられない。
今にして思えばこれは大きな国のほんの1カットであり、
「NYの風景」と言ったほうがいいのだろうな。
選挙で選ばれた大統領なら、あそこまで支えないとだめなものか。
言葉の応酬ならまだ喜劇で、
となりの祈りを認めない宗教が極端に走ると悲劇が起こる。
もう本当にたくさんだ。
災害でもう十分人は死んでいる。
人間同士で殺しあうことはないじゃないかと思う。

50cent

2年ぶりにこのお題を再開。
他人が興味を持つとも思えない、全くの独り言だ。

私の弟は専門学校卒業後、すぐに渡米した。
歯科技工士として10年、途中曲折を経てNYにラボを開業していた。
その弟を訪ねて、初めての海外の旅の最後に欧州からNYへ渡ったのが1991年。
わずか3週間の居候の間に見て感じた、しかも小さなことが、
今も強い印象で残っている。


当時弟が住んでいたクイーンズ地区は、よく知られている移民街だ。
マンハッタンとはクイーンズブリッジでつながり、
ビル群を背景にした有名な風景は映画「マンハッタン」冒頭を飾っていた。
同じNY、ブルックリン育ちの監督ウディ・アレンはこの橋を
ため息が出るほど美しく撮っていた。
弟の仕事場はマンハッタンにあり、毎日昼間は私一人で時間をつぶしていた。
朝起きると食パンにスクランブルエッグとレタス、
オレンジジュースが毎日の献立。
卵、ミルク、オレンジジュースの安さには感動した。
しかも紙パックは皆2リットル入りで、日本にはない大きさだ。
家賃も探せばかなり安いところはあり、日本よりはかなり広く壁も厚い。
「衣・食・住」が自分のサイフに合わせて得られることは
外からやってきた者にとってとりあえずは暮らしやすいと思うだろう。
ちなみに弟は毎日、米を炊いて食べていた(カリフォルニア米はうまい)。

食後、時々コインランドリーへ出かけた。
ハイティーンの少年少女達がたむろしている中に入ってゆくと、
日本の1.5倍はありそうな大型の洗濯機が並んでいる。
コインの投入部の構造が日本とは違うアメリカ製機械の使い方に戸惑っていると
見慣れないアジア人に興味を向けていた彼らが
「こうするんだ」「ここにコインを入れるんだ」と教えてくれた。
「サンキュー」とお礼を言うと、「いいんだ」と言って向こうを向く。
そばにいた彼の女友達たちと顔を合わせてちょっと恥ずかしそうに笑っている。
欧州で出会ったアメリカ人の明るくフランクな印象とは違っていたのは
彼らもまた、移民として日が浅かったからなのかもしれない。
初めてのアメリカで、朝の風景は卵やオレンジジュースの美味しさと安さ、
シャイな少年達のイメージで始まった。
9.11の10年ほど前のことで、アメリカの移民社会ははまだずっと明るかった。
浦賀水道をゆく船_20161015-4(ガッシュ)

大きな地震が鳥取であったとラジオで伝えていた。
続いて話は東京で将来起こりうる大地震の可能性について、
気象庁だったかの発表では東京で40%、神奈川で50%以上であり、
やはり大地震の来る可能性はかなり高く、
東京の我々にとっても人ごとでは決してないのです、云々。
いや、そうではなかったと思う。
私が東京へ来た30年ほど前、夕方の天気予報ではもっとはっきり言っていた。
「近い将来、東京には関東大震災と同規模の大地震が必ず来ます」
そう言い切っていて、上京し立ての私は震え上がったことをはっきり覚えている。
こちらはうろ覚えだけれど、期限も「30年以内に」と言っていたように思う。
あれからそろそろ30年が経つ。

仕事場近くのやや気取った古書店に、
安い文庫本が毎日積み足されるようになった。
角川や新潮の大量販売大量消費されたものではなく、
筑摩や中公、平凡社ライブラリー、講談社の文芸文庫といった、
古本好きのごちそうラインナップがうれしい。
私は出久根達郎さんと、串田孫一さんの随筆を一冊ずつ購入した。
串田本はあとでゆっくり読むとして、出久根さんのエッセイを読み始める。
話はいつもの古本についてではなく、飛行機の旅についてである。
TVの仕事で初めて飛行機に乗った出久根さん、
エコノミーとビジネスクラスの差がわからなかった。
ちなみに私も30歳くらいまでわからなかった。
理由も同じで飛行機に乗ることがなかったからである。
ビジネスクラスの席が取れなかったことを担当者が恐縮し、謝る。
「私は平気だった。乗れればよい。仮に墜落したところが、
 上等のクラスだったからといって助かることはあるまい。
 船とは違う。船の場合は、確実に上等室の客が、助かる。
 水面よりはるかの高みに部屋があるからである。」
映画タイタニックを見ていながら、あまり考えたことがなかった。

日本の国内客船では、せいぜい三等室までしか見たことがない。
私が初めて船旅をしたとき、混んでいて、
さらに下の「布団部屋」へ入れられた。
初めて海外へ出たときもロシア(当時ソ連)への船旅で始まり、
そこは初めて聞く六等室だった。
ただし、2人部屋であるロシアの六等は
衆人雑魚寝の日本の三等よりもずっと部屋はいい。
どちらの部屋にも窓などあるはずもなく、
そうか、部屋の安さは命の値段だったのだ。
飛行機の席のランクはサービスのランクであり、
船の部屋のランクは命の序列なのだと、
今頃になって気がついたのだった。

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