浦賀水道をゆく船_20161015-4(ガッシュ)

大きな地震が鳥取であったとラジオで伝えていた。
続いて話は東京で将来起こりうる大地震の可能性について、
気象庁だったかの発表では東京で40%、神奈川で50%以上であり、
やはり大地震の来る可能性はかなり高く、
東京の我々にとっても人ごとでは決してないのです、云々。
いや、そうではなかったと思う。
私が東京へ来た30年ほど前、夕方の天気予報ではもっとはっきり言っていた。
「近い将来、東京には関東大震災と同規模の大地震が必ず来ます」
そう言い切っていて、上京し立ての私は震え上がったことをはっきり覚えている。
こちらはうろ覚えだけれど、期限も「30年以内に」と言っていたように思う。
あれからそろそろ30年が経つ。

仕事場近くのやや気取った古書店に、
安い文庫本が毎日積み足されるようになった。
角川や新潮の大量販売大量消費されたものではなく、
筑摩や中公、平凡社ライブラリー、講談社の文芸文庫といった、
古本好きのごちそうラインナップがうれしい。
私は出久根達郎さんと、串田孫一さんの随筆を一冊ずつ購入した。
串田本はあとでゆっくり読むとして、出久根さんのエッセイを読み始める。
話はいつもの古本についてではなく、飛行機の旅についてである。
TVの仕事で初めて飛行機に乗った出久根さん、
エコノミーとビジネスクラスの差がわからなかった。
ちなみに私も30歳くらいまでわからなかった。
理由も同じで飛行機に乗ることがなかったからである。
ビジネスクラスの席が取れなかったことを担当者が恐縮し、謝る。
「私は平気だった。乗れればよい。仮に墜落したところが、
 上等のクラスだったからといって助かることはあるまい。
 船とは違う。船の場合は、確実に上等室の客が、助かる。
 水面よりはるかの高みに部屋があるからである。」
映画タイタニックを見ていながら、あまり考えたことがなかった。

日本の国内客船では、せいぜい三等室までしか見たことがない。
私が初めて船旅をしたとき、混んでいて、
さらに下の「布団部屋」へ入れられた。
初めて海外へ出たときもロシア(当時ソ連)への船旅で始まり、
そこは初めて聞く六等室だった。
ただし、2人部屋であるロシアの六等は
衆人雑魚寝の日本の三等よりもずっと部屋はいい。
どちらの部屋にも窓などあるはずもなく、
そうか、部屋の安さは命の値段だったのだ。
飛行機の席のランクはサービスのランクであり、
船の部屋のランクは命の序列なのだと、
今頃になって気がついたのだった。
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越後曽根

新潟駅から、海岸にある坂口安吾の碑に向かった。
海沿いの道に続く家並みを見ると、なぜか実家の近くの風景が強く思い出された。
それはひなびた田舎道といったものではなくて、
新しくも古くもない、ふつうの住宅地にすぎず、そのありふれた風景が、
遠く離れた奈良の近所だけを思い出させることが不思議なのだった。

海辺にごろりと転がされたように置かれた安吾の碑には
 “ふるさとは 語ることなし 安吾”
と彫られていた。
碑はたしか尾崎士郎が建てたか、揮毫を寄せたはずだ。

夜、昼間の新潟の都会的な賑わいから離れるにしたがって、
時間をさかのぼるかのような田舎町へやってきた。
食堂で最寄り駅の様子を聞いたら、残念なことに終電後は締め切りになるそうだ。
野宿をする場所を探していると知った店のおばさん、
少し酔った店のお客らも加わって、心当たりの場所を挙げてくれる。
けっきょく、この先の神社の地蔵堂がよかろうということで、村の人の意見は一致した。
若かったから許された(?)のか、その頃はそんな旅の仕方をする者が時々は居たのか。
今(の年齢で)やればホームレスと見られるか、不審者として即通報されただろう。

お礼を言って歩き出すと、目当ての堂はすぐに見つかった。
さすがにこんなところで寝るのは初めてだった。
中は一畳の畳敷きで、天井までの高さが1mほどの穴蔵のような小さなお堂だ。
建て直されたらしくきれいではあるが、細部は暗くてよくわからない。
しかし山の中で夜は更けていて、今夜はここで寝るしかない。
人通りがないのを見極め、賽銭箱を乗り越え、思い切って戸を開けて中へ踏み込む。
気をつけたつもりが、ぶらさがりの鈴がガラガラと鳴る。
おれはなにをやってるのか。
店でごちそうになったコップ一杯のビールが少し回っている。
場所が場所だけに少々線香が煙っている。
さらに私がここへ入るときに紛れ込んだか、蚊が一匹、周期的に耳元をかすめてうるさい。
疲れ果てているのに、おかげでとうとう眠れないまま、朝を迎えることになってしまった。

外はまだ暗い明け方、うとうととし始めた頃、祠の外に人の気配がする。
チャリンと硬貨が賽銭箱に落ちる音がし、続いて「パン、パン」と柏手を打つ音。
続いて別の方向からまた人が。
チャリン、一呼吸おいて「パン、パン」
まだ暗いうちから、提灯片手に村人の朝のお勤めは始まる。
この秋の豊作を祈っているのだろうか。
敬虔な信心は今、堂の中で寝ぼけている私のほうへ向けられている。
村人は次から次へやってきて、中の私は息を凝らし、出るに出られない。
この村の人に勧められたとは言え、ここに入って本当によかったのだろうか。

やがて、どぉーん、どぉーんと大太鼓の音が、上の神社本殿の方から聞こえてくると
いっとき人通りが途切れたのを幸い、さっさと表へはい出した。
間一髪、むこうからふたたびお参りの人がやって来たが、
私はさっきまでそこに居た、今はカラのお堂に手を合わせ、
何事も無かったかのように南へ向かって歩き出した。
イクラとウイスキー(オイルパステル)
また時間を少し戻して、シベリア鉄道の中。
ソ連国内の外国人旅行者は、基本的に一つのグループにまとめられ、全員同じ列車だ。
管理がしやすいからだろう。
ただ、私だけが一両置いて、ロシア人専用の車両にベッドを割り当てられた。
横浜から行動を共にしてきた人たちの国籍はさまざまだった。
オーストラリア、カナダ、ドイツ、アメリカ、スイス、
そして一番多いのはもちろん我々日本人だ。
欧米人は白人ばかりで、誰もが知っているナショナルブランドの企業か、大学教授など、
エリートといわれる人たちだった。

中間地点のイルクーツクは世界で最も深い湖であるバイカル湖のある観光地で、
ここで下車せずにモスクワへ直行するのは私ひとりだった。
しかし、ロシア人の中にひとりでいることになって、ここからが本当の旅が始まった。
画家の田淵安一さんの自伝的エッセイに「二面の鏡」という本がある。
不思議なタイトルは、画家の若い頃日本での日々と、フランスに渡ってからのと、
二国で経験したことや考えたことを交互に綴っているのでつけられたものだ。
厚かましくもそれにならって、
先日から日本と海外の旅の思い出を交互に書き始めた。
旅はもちろん好きだけれど、生活などに追われてそう何度も出かけてはいない。
書ける話はそんなに多くはないし、残念なことに、
それら印象に残っている出来事には写真やスケッチが残っていない。
残しようがなかったということもある。
月日が経ち、今となってはぼんやりとなってしまっている記憶を文字に起こし、
失われた風景を視覚化するのはけっこうおもしろい作業だ。
思いつくまま書いているので、旅の時系列は前後入り乱れている。

新潟_勝木

山形から新潟へその日、県境の国道をひたすら南へ向かって歩いていた。
あたりには人家もなく、月のない夜が暮れてみれば私はひとり、
黒い地平の真ん中にいた。
新潟に入ってどれだけ歩いただろうか、
道は右へ一度折れると今度はまっすぐに伸び、地平の際まで続いているように見えた。
といっても、街灯もなければ車も通らない道は、10mほど先で闇に沈んでいた。
今地図を見ても、人家もなく、まっすぐな道がどこまでも続く場所など見あたらない。
一体どこを歩いていたのだろうか。
足下もよく見えないので、歩くというより浮遊感がある。

やがて、道路のはるか先に一点の光が見えてきた。
しばらく歩くと、それはどうも人家のようであり、
さらに歩くと、古ぼけた小さな旅館の開け放たれた玄関先だとわかってきた。
そんな先までどうして見えたのかわからないが、明かりの中に古い大きな柱時計が見える。
その床置きの柱時計は天井に届きそうで、こちらをじっと見ているようだ。
一軒宿へ続く道は、気がつけば宿の淡い灯りに照らされ、黒い地平に浮いていた。
漂うように歩き続けていると、永遠にそこへは着かないんじゃないだろうかとも思えた。
ギリシア国境にて
この話も国境でのできごと。
ソ連出国の日がきて、モスクワからギリシアへ向かう列車に乗せられた。
その頃ソ連への旅行は、着いた街の中こそペレストロイカ政策で自由に歩けたが
旅のコース、宿、移動の列車まで、日本を出る前に決められて変更は一切認められなかった。
(一度、国営旅行者の人に掛け合ってみたけれど)
とくにモスクワへの出入りには、ひとりの旅行者にロシア人が二人迎えにやってきて、
出国時には再度ふたりが来て駅まで送り届ける念の入りようだ。
丁寧なサービスというより、列車に確実に乗ったかを見届けるためだろう。
にもかかわらず、私の10日ほどのソ連の旅は最後まで手違いの連続だった。

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