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仕事中、ラジオから耳を疑うニュースが聞こえてきた。
生きている間にそんなことが起こるのだろうか。
マルケが繰り返し描いたあの見事な建築物が、
昨日焼け落ちたというのは本当だろうか。
形あるものはいつかなくなる、そんな箴言があったとしても、
まったく信じられない出来事だ。
戦火で失われるものもあれば、災害や人間の過失で失われる場合もある。
800年もの間、そのどれからも免れられてきたことを思えば、
人間の何らかの不始末が災いを生んだのは、悔やみきれないことだ。

遠い国にありながら、子供の時から写真、TV、映画、
そして主に印象派のタブローで見てきて、
「何としても一度この目で見たい」と思っていた。
願うだけで若い日の足下を、河の水はたっぷり流れた。
信者だけでなく、いつの時代にも美術を愛する人にとっては、
あの寺院は特別な建物だ。
30歳にして、膨れるだけ膨れあがった憧れを胸に、
初めてこの目で見られた時の感動は、今も忘れられない。
一目見た記憶が自分の人生の一部になっている、
その大きさに差はあっても、私のような人は無数にいるはずだ。
再建を応援する声に水を差すようだけれども、
再建した金閣寺はもう金閣寺ではない。
だから文化財は貴重で、扱いには慎重の上にも慎重を重ねなくてはならないのだ。
800年前から存在したノートルダムが世界の宝なのであって、
おそらくは災害にも強く再建されるだろう新寺院は、もう観光資源にすぎなくなる。
ゴッホも観ただろう。
マチスやマルケが繰り返し描いた同じノートルダムは
永遠に見ることができなくなったのだ。
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昨年夏、家族で信州へキャンプに行った。
そこに町の紹介パンフレットが置いてあった。
こういうローカルパンフレットを見るのが好きだ。
どこのパンフも載っているのは観光名所と食べる、買う(土産)、浸かる(温泉)だ。
小さい村ほど、少ない観光資源を観てもらおうと一生懸命だ。
ある小さな村では、見所がすべて水彩画で描かれていたところもあった。
キャンプ場があった中川村のパンフレットはデザインも洗練されていて、
女性向け雑誌の紙面のように仕上がっていた。
ここに載っていた、絵画用額縁の専門店「タクラマカン」に目が留まった。
説明によると、「古民家の廃材を使ってオリジナルの額縁を制作」とある。
「ここまで来て額縁屋へ?」とうんざりする家族を連れ、額縁店へ向かった。

幹線道路沿いにありながら、なかなか見つかりにくい店は工房、アトリエの雰囲気。
迷路のような店内の一番奥まで進み、
大きな声で呼ばないと、店の人は出てこない。
「タクラマカン」という店名は、店の主人松島拓良さんの名前に由来していて、
松島さんの名刺には「フレーマー」とある。
若く見えるけれど、ここで額縁専門店を開いて20年になるという。
こう言っては本当に失礼だけれど、
こんな田舎で額縁だけで食べているということに驚いた。
そういえばここ中川村には美術館もあり、
しかも収蔵品はアンフォルメルという、一般受けしにくいカテゴリーの作品群だ。
村への移住者も積極的に受け入れていて、
おそらく彼らが経営しているのだろう、垢抜けたカフェもあり、
食事時はかなり混んでいて入れなかった。
自ら「日本で最も美しい村」のキャッチフレーズをつけているのが可笑しい。
そういう村はありがちだけれど、今、外国人観光客が少ないだけでも貴重な場所だ。

店主の松島さんと少しのあいだ話をした。
のぞいてみるだけのつもりが話を聞いていて面白くなり、
とうとう古材の額を作ってもらうことにした。
船を描いたパステル画がかなりの枚数になっていたので、
それを小さな額に入れて部屋にかけてみようと思った。
と言っても、これまで既製品しか購入したことがないので、勝手がわからない。
店内に飾られた無数の額縁の中から気に入ったデザインを選び、
それのリサイズをお願いした。
こう言ってはなんだけれど、自分の画を額に入れて飾ることはまずない。
画を額に入れるのは、人に自分の画をあげる時か、人の画を買った時だ。
自分の画を入れる額縁を初めて注文したことに、少しワクワクした。

オーダーした額が届いたのはそれから2〜3ヶ月後、
注文したのが夏で、届いた時は秋になっていた。
額縁の素材はいつでも入手可能というわけではなく、
古民家の解体があるまで待たねばならない。
ところで私は常々、額縁が立派すぎ、そして重いのが不満だった。
届いた額縁は軽く、部屋に掛けれてみれば
何十年も前から部屋の壁に掛かっていたような風情だった。
注文額なのに、値段も手頃だ。
ただ、額縁店タクラマカンにはホームページもなければ、
店主の松島さんのメールアドレスもない。
まずは長野のお店に行き、
どんな額にするか、どんな画を入れるかの話を詰めて頼むか、
まったくのお任せで注文するしかない。
こういった手間のかかるところも、なんとなくいい。
その後、同じようなデザインで少し大きめの額を二つお願いした。
届いたのは今度もやっぱり三ヶ月後だった。
今度の素材の産地は、南信州の古民家とのことだった。
今回額縁に入れたのはやはり、私の手を離れてゆく水彩画と、
私がはじめて購入した画で、フランス在住の画家越智博さんの油彩画である。
水彩画の額はちょっと手を加えて、
たまたま持っていた古いタイルを自分で角にあしらってみた。
和室にもよく合って、思いのほかうまくいった。

こういう出会いがあるから、旅は楽しい。

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寝屋川焼け跡
(オイルパステル)

戦争を知らない私が見た、忘れられない戦争の風景がある。
私が子どもの頃、といっても小学校の頃だから
昭和40年代後半の頃に私が見た、大阪の中心部に実際にあった風景である。
その頃、夏休みや冬休みには必ず、大阪の祖父母の家へ泊まりに行った。
近鉄奈良線から鶴橋で大阪環状線に乗り換え、
京橋でさらに京阪線に乗り換えて枚方まで行く。
途中、森ノ宮駅から京橋へ入って行くところ、
その頃はまだなかった大阪城公園駅を過ぎたあたり、
今の読売放送社屋の前あたりに突然、黒く焼け焦げた風景が広がっていた。
戦後20年を経てもなお、草も生えていなかった。
太平洋戦争時に被災した空襲の跡が
20年間も放置されていたのは、どうしてだったのだろう。
ちなみに前回の、野見山暁治さんらが戦没画学生の遺族を訪ねる旅をはじめたのは
それからさらに10年後のことだ。
ネットでは、大勢の犠牲者が出た京橋駅の空襲についての詳細な手記が出ている。
そこからほど近いここの土手も、同じ空襲で焼かれたものと思われる。

これはひょっとして幼い私の思い込みで、
実際は空襲ではなく、火事か何かの焼け跡だったのだろうか。
「ここはなに?」と聞いたとき、母は「空襲のあとやで」と私に言った。
だとすると、レンガや立木、地面にいたるまで焼き尽くされた黒焦げの土地が
この土手沿いに、焼けて手つかずのまま残されていたのはなぜだったのだろう。
通勤に環状線を使う人は、
まだ煙がくすぶっていそうなその風景を見て、どう思っていたのだろう。
毎日見ていればただの通り過ぎる風景になるのだろうか。

高度成長期からオイルショックの時代を経てなお放置された異様な風景は、
ネットのどこかに出ているんじゃないかと、ずいぶん探してみたものの、
とうとう見つけることができなかった。
焼け跡はある年に突然工事が始まり、たしかそこに日本生命ビルが建った。
それから何度か建て替えがあり、現在は読売放送社屋が建っている。
今、このあたりは「ビジネスパーク」と呼ばれているそうだ。
下のストリートビューは現在の風景だ。
私の記憶では、実際は上の画よりもあらゆるものがもっと黒く焦げていて、
黒い地面にパラパラと残っていたレンガの破片もわずかだった。
あそこを掘り返せば、今でも黒い地面と焼けたレンガが出てくるはずだ。
今となっては悲惨と言うよりも、私の中では夢のような風景になっている。

寝屋川縁
(googlemapより)
NYのリス
(NY、弟の部屋の窓にやってきたリス)

ひと月ほど前、秋に入ったというのでラジオでキノコについてしゃべっていた。
秋の味覚はスーパーで買うより山へ出かけて、
自分の手で摘み取ったものを食べた方がうまいに決まっている。
ところが一つ間違うと毒にあたる。
しばしば命に関わるから、食いしんぼにとっては旬の味も命がけだ。

最近NHKのタモリの番組で黒部ダムを特集していて懐かしかった。
ダムから3時間ほど歩いたところに、主に渓流釣り客を泊める山小屋がある。
私は以前、後立山を縦走したときに針ノ木から下って、その平の小屋へ泊まった。
その夜、泊まり客がまだ若い3代目のオヤジを囲んでいろいろな話を聞いた。
オヤジさんの話はたいへんに面白く、しかも尽きることがなかった。
その翌朝、食卓に出されたキノコの醤油煮がびっくりするほどおいしかった。
初めて見るそのキノコを黒部では「キツネの茶袋」と言い、
ウズラよりもまだずっと小さな卵形をしていた。
淡白で、しかも山の日陰の香りがする珍味だった。
オヤジさんは、「キノコの毒は品種ごとに決まっているものではない」と言う。
毒がないと言われているキノコも、別の斜面では毒を持つことがある。
地元の人に聞かないと安全ではないのだと。
以来、山で山菜は採ってもキノコは採ったことがない。

星野道夫さんのエッセイに、キノコにまつわる面白い話がある。
結婚して奥さんがまだアラスカの家に来たばかりの頃、
家の庭にレタスやイチゴを育て始めた。
イチゴがそろそろ食べごろになり、明日は摘もうと思ったその朝、事件は起こった。
イチゴは先に誰かに摘み取られてしまったのである。
摘み取られた近くには、どういうわけかキノコが一本転がっていた。
奥さんはがっかりして次のイチゴの収穫を待った。
ところがそのイチゴもまた待っていたかのように、収穫しようとした日に摘み取られていた。
そして後には「そのかわりに」といった感じでキノコが一本置いてあったのである。
そういうことが何回か繰り返された後、
奥さんはついにその犯人がイチゴをくわえて走り去るのを目撃する。
それは家の近くに住むリスだった。
キノコを抱えて走ってきたリスはここで、おいしそうに熟したイチゴを発見する。
どちらにしようか迷った末、
手にしたキノコを置いてイチゴを持っていったようだ。
星野さんはそれがおかしくてならない。
NYの名画座

引き続き1991年の旅先アメリカでの話。
アメリカへ来たなら映画館へ行ってみたいと思って、
ぴあのような情報誌で調べてみると、
ビレッジの方で「風と共に去りぬ」をやっていた。
この名作なら字幕なしでも大体わかるだろうと思って出かけた。
小さな劇場は、地下鉄を乗り継いでやって来たマンハッタンのはずれ、
という感じの場所にあった。
どんなに小さく寂れていても、日本のように通路で便所の匂いはしない。
今では日本のシネコンなんかで当たり前になったけれど、
ロビーにある映画館のスタンドバーにアメリカの香りがした。
一人で酒は飲まないのでコーヒーを注文した。
不思議に思うのだけれど当時海外では
コーヒーを冷やして飲む習慣は一般的でなかったように思う。
缶コーヒーもない。今はどうだろう。
味の問題かとも思ったが、
先日TVでコーヒー好きのイタリア人に缶コーヒーを試飲させたら
「おいしいね」と言っていて、これはこれで驚いた。

館内はガラガラで、
板張りの床や狭い通路を照らす古い電灯から異国の香りが立ち上っていた。
前の席にはアレックス・ヘイリー(「ルーツ」の作者)似の大きな黒人と
痩せ型の白人、どちらも初老の男性が空の座席一つを挟んで座っていた。
映画の内容よりも覚えているのはこの二人のことだ。
二人は全くの他人のようで、映画が終わるまで顔も合わせなかった。
映画が終わると二人は少しの間、
今見た映画についての意見のやりとりをしていたが、やがて別々に出て行った。
私の語学力ではとても内容まではわからなかったけれど、
穏やかな会話からは、
印象に残ったシーンについてお互いの感想を話しているようだった。
映画にはには奴隷制時代の黒人が出てくる。
その映画の感想を隣の他人、しかも黒人と白人とでと語り合う、
あまりにもおおらかな風景が、「アメリカの風景」として忘れられない。
今にして思えばこれは大きな国のほんの1カットであり、
「NYの風景」と言ったほうがいいのだろうな。

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