1982年頃の大阪市中央卸売市場
(水彩にカラーコンテ)

東京の卸売市場のことが話題になるにつけ、大阪の中央市場のことを思い出す。
蔬菜部(野菜市場)で20歳頃に働いていたのは、もう35年も前のことになる。
鮮魚ではなく蔬菜を選んだのは、魚は朝が野菜より2時間近く早く、
学校に通うにはちょっと無理がありそうだったのが理由だったように思う。
記憶の中に残る場内の風景は10年くらい前のようにはっきりしているのだけれど
それを画にしようとすると、途端に輪郭がぼやけてくる。
市場の建物は10年以上前に建て替えられてしまっていて
実際にこの目で見ることはもうできなくなってしまっている。
(ちなみに建て替え費用は1300億円だそうで、
 それでも当時は高すぎるんじゃないのかとの声あり)
検索の仕方がまずいのか、建て替え前の施設の写真をネット上に見つけることができず、
私が持っている唯一の写真もモノクロの一枚きり。
ここを離れて10数年後、帰省時に立ち寄った時に撮ったもの。
その頃凝っていたモノクロ写真で撮影してしまったのが今は悔やまれる。
もう見られないから画にしたい。
休日以外の朝は荷を運ぶトラックと労働者がひしめき、
じっと立っているとはじかれそうな活気がたぎる食材の町。
ただ、私の記憶にある風景は温かく、懐かしい。
野田の町を離れて数年後、市場は映画ブラックレインのロケ地にもなった。
猥雑、オリエンタル、ラビリンス、
それらは外国人の「フシギの国・日本」への想像力の入り口だったようだ。
そういえば、ブレードランナーも大阪っぽい。

市場は中之島の西の端から川を隔てて対岸に位置する。
そう考えると中之島というのは長くてパリのシテ島に似た感じにも思える。
ただ、市場の正面口から中之島を見たという記憶が全くないのはどういうことだろう。
市場の左岸を流れていた大きな川が安治川だったというのは、地図を見ながら今知った。
淀川の支流、大川を市役所のある東の端で二方に割り、
再度西側で合流したところで再び2つに分かれ、
右に安治川となったところに市場はある。
一度学校の帰りに、大阪湾の海の見えるところまでバイクで出てみようと
町を通り越して西に向かったことがある。
海まですぐ目と鼻の先のはずだけれど、これがなかなか出られない。
日はすでに暮れてどこまで行っても黒々とした工場の町が続いている。
今、工場は警備灯が不夜城のように輝き、
その夜景は函館よりも美しかったりする。
しかしその頃その辺りの工場の夜は、暗い街灯に沈む闇の中だった。
焼けた金属くさい空気、抜けられない道、
スチールウールの塊のようにもつれた町だった。
今地図を見ると、同じ場所には「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」とある。
安治川挟んで対岸には天保山の水族館、海遊館もある。
夜の底にひろがっていた黒い工場群は、どこに行ってしまったのだろう。
あの日、夜の工場の闇の中でぐるぐる走り回って抜けられなかったのは
今となっては夢の中のラビリンスになっている。
スポンサーサイト

Tag:Landscape Paysage 風景画

無題_20150628(オイルパステル)

はじめてひとり暮らしを始めたのは、大阪の野田というところ。
この画のアパートよりは大きかったが、似た感じの建物で、
大阪中央卸売市場の城下町とも言える、戦災からも免れた数少ない古い下町だった。
それまで全く知らない町であったが、昼間は画の研究所へ通い、
朝の空いている時間は卸売市場で働いて学費を稼ごうという腹づもりだった。
とすると、住む場所は電車の始発前に、市場へ歩いて通える場所でなくてはならない。
東京の山手線にあたる大阪環状線の高架を走る電車から
眼下に広がる町を見おろして当たりをつけると、駅に降りて探し出した。
部屋を探すにはまず不動産屋へ、ということを思いつかず、
歩いて目についたアパートのドアを片端からたたき、
「空いてる部屋はありませんか」と聞いて回った。
そんな飛び込みの部屋探しする者をそれほど不審にも面倒にも思わず、
空いている部屋があれば住人の人が案内してくれたり、
離れたところに住む大家さんに連絡してくれたりした。
世間というのは何かにつけ、若さに甘い。
それがまた若者の成長を促す土でもあったのだ。

そのとき見たいくつかの物件は今もよく覚えている。
ある部屋は窓を開けると、隣の建物の壁が目の前30cmほどに迫り、
暗い裸電球一つがぶら下がる部屋は昼間も真っ暗で、若さの勢いはいきなりくじかれた。
案内してくれた人はうしろから
「半年前にひとり暮らしのおばあさんがここで亡くなりました」と言って追い打ちをかける。
またある部屋は、すべての障子紙が破れていて、短ざくのように風になびいていた。
ゆれる紙切れにはすべて、なにやら筆で書かれた細い文字が見え、
さながら耳なし芳一の部屋を思わせた。

けっきょく決めたのは「源氏荘」という、窓枠に至るまですべて木造のモルタルアパート。
昭和37年築の二階の角部屋、フロなし3畳一間のウナギの寝床のような部屋だったが、
窓が三カ所にあって日当たりがよく、
ガスが部屋に来ているので、自炊できるのが助かった。
中華料理屋で高校時代からバイトしていたので、メニューはほぼ毎日中華だった。
そこに住む全員が銭湯通いなので、夕方、あるいは夜になると、
誰彼となく洗面器を持って出かける。
近所に銭湯は4つもあって、行きつけの湯が休みの時には、
別のところへ行くのも楽しいものだった。
大阪中崎町の研究所までバイクで10分ほど、家賃は9千円と格安だった。
ここで半年働き、貯めたお金で残りの半年は画の勉強に専念した。

東京に来てからは、部屋を探すときにはさすがに不動産屋さんにお願いする。
それでも古いモルタルのアパートを見ると、
ドアをいきなり開いて「空いてる部屋はありませんか」とやっても、
それもアリなんじゃないかと、今も思い込んでいるフシがある。

Tag:風景画 Landscape Paysage

もうすぐモスクワ
話は少し前にさかのぼる。
3月はじめに古い友人と会った。
今から23年前に私がはじめて海外への旅に出たとき、
横浜港からナホトカ行きの船に乗り、モスクワへのシベリア鉄道まで同乗したうちの4人だった。
その時、職業も出身地もバラバラにもかかわらず、列車内のみんなは妙に気が合った。
私は30歳を前にして初めての海外への旅であり、
見るもの聞くものすべてが珍しく、毎日が新鮮な驚きの連続だった。
当時のソ連は1ヶ月後の崩壊を前に物資が極端に不足しており、
デパートのショーケースには、とくにモスクワではほとんど商品が並んでいなかった。
(極東付近では意外に何でもあったが)
列車の食堂車に食事があるのは決められた時間だけ。
卵や肉は途中駅に停車するたび食堂車の裏から売りさばかれ、
モスクワに着く頃にはスープに具はなく、
駅で売られているピロシキの具はじゃがいもだけだった。

ヨーロッパを自転車で回るつもりだったK君は、
「自転車はみなさんと別れてすぐ盗まれました」と、
旅先からゾウガメの背に乗った写真の絵はがきを送ってきた。
あっさり自転車の旅を諦めた彼はその後、1年近く放浪して帰国した。

IT技術者のY君は、列車に同乗していたオーストリア人二人に、今もフンガイしている。
Y君含む彼らは列車内で仲良くなったロシアのおじさんにビン入りのハチミツを勧められた。
その様子から、それをおじさんが相当大事にしているのは明らかだった。
「なめていいよ」と言われてスプーンにもらった一さじが、驚くほどおいしかったそうだ。
ところが同じように勧められたオーストリア人の若者二人は、
そのハチミツをおじさんが席を外している間に、ひとビン全部なめてしまったのである。
そのあとどうなったかわからないが、あの二人は許せないと、
Y君は今も(吹きだしながら)言うのである。

帰国後すぐに一度は再会したが、あとは茫々23年間の月日が経ってしまった。
きっかけとなったのは、岡山で和菓子職人をしていたS君が2月末に電話をかけてきてくれたこと。
それまで年賀状のやりとりだけは続けていたものの、
「今年こそ会いましょう」と言いながら長きにわたりついに会うことの無かった4人が
今回はあっという間に日時と場所が決まり、再会となった。
やはり実際に声を聞いて話すことは大事だ。

懐かしい顔はそれなりに時間の経過を刻んでいるものの、あの日と変わらぬ冗談を言い合い
23年の時間を飛び越えて笑い合った。
人間というのは一生を通じて、それほど変わるものではないことを痛感する。
宴の話題は現在のことよりやはり当時の旅、
とくにバイカル湖のあるイルクーツクで別れて以後のことに花が咲いた。
4人の中では比較的旅が短かったほうである私が、どういうわけか一番しゃべっていたようだ。
旅は楽しく刺激に満ちた、一生に何度もない大切な時間だった。
私が当時、「20年後に再会したときには、みんなでローカル列車に乗って旅をしよう」
と話したことがあったらしい。
すっかり忘れていたが、覚えてくれたいたことが何よりうれしい。
いつか実現できればそれも、忘れられない楽しい旅になりそうだ。
日曜美術館タイトル

すべて見ているわけでもないけれど、
昔からNHKの日曜美術館を見るのは休日の楽しみの一つだ。
この番組で自分が初めて知る画家も多い。
自分自身にもっともなじみがあり、通い続ける美術館だと言っても良いかもしれない。
上の画像は、先日再放送された1981年頃の番組タイトルで、
テーマ曲ともあわせてため息が出るほど懐かしかった。
1981年当時の番組は、今に比べて似ているようでもずっと落ち着きがあり、
番組の構成にも品があって安心してみていられたように思う。
こういう番組も時代と共に変わってゆく必要があるのだろうか。
20歳頃、はじめて家を出て生活を始めたとき、部屋にはTVがなかった。
日曜の朝はこの番組を見るために洗濯をかねて
TVが置いてある近所のコインランドリーへ出かけるのが常だった。
しかし運悪く誰か先に来ていて別の番組なんかを見ていたらその週は見られないことになり、
しょぼくれて部屋に引き返したこともあった。


先日は今も続くこの番組で青森の洋画家常田健をとりあげていた。
この画家も番組で初めて知った画家だ。
常田健は若い日に一度は東京に出たものの生まれた青森に戻り、
りんごを育てる畑仕事を続けながら世間に発表することもなく、ひたすらひとりで描き続けた。
90歳間近になったとき、東京の画廊主から強く請われて初の個展を開いたことから注目を集め、
急逝した2000年前後には展覧会、画集出版、マスコミの取材など、
一躍陽の当たる場所に出ることになった。
しかし画家の急逝により、初の公立美術館での展覧会は同時に初の回顧展になってしまった。

それから12年経ってふたたび日曜美術館で光を当てたわけだが、
コメンテーターに画家の生きた世界とは真逆の広告業界にいる人物を据えていた。
対比として面白いと思っての企画だろうが、
その人物と近い業界にいる私は「大丈夫だろうか」と思って見ていた。
NHKとは同局の番組の司会経験やゲスト出演などしてきたパイプの太さを買っての起用だろうが、
世の評価とは一切関わりのないところで描き続けた画家を
企業に何らかの価値をもたらすために生きる人間に語らせることに、
一体どんな意味があるのだろうか。
NHKは最近よくこういうキャスティングをする。

最初のうち控えめに発言していた彼は、比較的安心して見ていられた。
スタジオに戻って彼は常田の代表作を紹介しながら次第に熱が入り、
「この作品は、今すぐにロックのCDジャケットに使える」と聞いた時、はっとした。
先日ここに書いたばかりの、辺見庸が資本と最も対極にあるはずのジャコメッリの作品をさして
「この映像は即日CM写真としてつかえる可能性がある。(中略)
 じっさいに使用を考える者がでてきてもおかしくない、と私はおもっている。」
と書いてたことが思い出されたのだった。
CMディレクターの「CDジャケットに使える」という発言を聞いた時、
同じ業界の末端にいる自分は冷や水を浴びる思いをした。
画家は
「東京から(青森に)帰って、百姓になり、なりきって、
 しかも絵を捨てきれませんでした」と語った。
こういう切実な生から生まれたものを、
我々のようなちんどん業界のレベルに引きずりおろして語ってはいけない、
それがわかっていないといけないと私は思うのだが。。
画家はすでにこの世におらず、それを望むかどうかの了解を得る術さえないなら
なおさら分をわきまえ、あえて控えるのが制作者の良心ではないのだろうか。
誤解を招きそうだけれど、CDジャケットにアート作品を使うのがよくないのではない、
CMディレクターが「これは使えそうだ」と思うことに違和感があるのだ。


その2〜3日あとのこと、2009年に亡くなった忌野清志郎の命日にあわせ、
夜中のBSでいくつかの追悼特番を流していた。
そのうち、彼がゴッホ作品をたずねるというアーカイブ番組を見たが
清志郎はもともと画家志望で、ゴッホのファンであったばかりでなく、
実際、若い時にはゴッホばりの作品を多く描いていたことを初めて知った。
(ちなみに私は彼のCDを数枚持っていた程度の薄いファンである。)
番組で訪ねたのは、当時国内を巡回していたゴッホとミレーの展覧会と
新宿東郷青児美術館に常設展示されている「ひまわり」だった。
言わずもがなこれは、バブル期に日本が有り余るキャッシュを使って購入した、最大の美術品だ。
美術史上の至宝のアジアへの流出に、当時の欧米諸国はさぞ無念な思いをしたのではないだろうか。
かつて日本は、ゴッホがアルルで描いた6点のひまわりのうち、
戦前にも一点を所有していながら(戦災とはいえ)焼失してしまった前科がある。

話を戻して、清志郎は予想したよりもずっと静かに、慎重にコメントをしていた。
彼はこの番組で初めて直接ゴッホの作品に接したと思うが、
作品を前にしては非常に謙虚だった。
そしてミレーとゴッホのいくつかの作品を見て、意外にもまずミレーのすごさに感動してしまう。
ゴッホの意外に多い駄作を指摘していたことも印象的だった。
実際に駄作であったかどうかは別にして、
熱烈なファンでありながら、初めて直接ゴッホ作品に接して浮き足立ったところが少しもなく、
「たぶんこうなんだろう」と思っていながら、しかし実際の発言はかなり抑制している。
岩手で見たゴッホに彼はいささかがっかりした様子を隠さなかった一方、
東京で見た「ひまわり」にはかなり圧倒されていたようだ。
しかし私にはゴッホよりも、清志郎の画を前にしての態度とコメントが記憶に残った番組だった。

清志郎とゴッホ

もの作りにたずさわる人間は大勢いる。
そこの世界にいる人間は根っこは誰も同じだと思いたいが、
どうもそうではないと思った、そんなGWの日だった。
GW最後の日曜、福島第一原発20km圏内から避難してきている私の親戚と会った。
寮付きの良い条件で就けた自動車工場の仕事も、考えていた以上に精神的に大変とのこと、
「今は大変でも一年経てば、今度は自分が新しい人を迎える立場になるのだから」と
がんばれ、負けるな、と拳をあげる。

こちらに避難してきて初めて会った時、
ビールを飲みながら、私はこんな話をした。

WHAT'S NEW?