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古本というのは、Book Offがどの町にも一軒はある昨今、
だれでも一度は買ったことはあるだろうし、私は毎日一軒はパトロール。
とにかく古本好きだ。
ところで古新聞は、それほど昔のでなくとも昭和の終わり頃のさえ、
あらためて見る機会というのは意外に少ない気がする。
天袋にしまった荷物を包んだものとか、
タンスの引き出しの底に敷いたものを、夏物と冬物の入れ替え時に
「おや、懐かしい広告」といって目に留めるとか、
でもそういうことはお袋さんがやってくれたりするから、
機会としてはやはり少ないだろう。
そういうちょっと古い新聞を見ての驚きは、まず文字の小さいこと。
こんな小さい文字を、私を含め、
満員の通勤列車の中でゆられながら一心に読んでいた昭和の男性。
文字が小さいということは、
記者たちが書いた文章がそれだけ多いということでもある。
書く、読む、働くお父さんたちの姿が紙面から立ち上ってくる思いだ。

今も昔も紙面を開いてうれしいのは、日曜版のカラーグラビアページだ。
東京へ来た頃、日本の紋様を毎週カラーで取り上げていたものを
母がスクラップして、食品とともに送ってきてくれたことを思い出す。
今購読している日経新聞、日曜版の紙質はとくに良くて
見開き全面のアートページはいつも楽しみだ。
スマホのデジタル版にこの魅力はない。
気に入った新聞記事のスクラップは、子供の時から好きだったのだけれど、
東京に出てきて引越を繰り返すたびにそういうものも捨ててきた。

たまに当時の新聞の切り抜きが、古い段ボールから出てくることがある。
大阪のちょっとレトロな場所案内、みたいな連載記事があったのは
確か産経新聞だったと思う。
当時大阪の中央卸売市場で働きながら画の勉強をしていた私は
生活費を切り詰めながらも新聞だけは購読していた。
産経新聞は大手新聞の中で、一番購読料が安かったのだ。
毎月集金に来るおじさんがとても品のいい人で、
いつも美術展のチケットを持ってきてくれたのが、とてもありがたかった。

切り抜きの連載記事の一つに、大阪道頓堀の橋のたもとの雑居ビルにあった
「8(エイト)」という喫茶店の紹介があった。
読めば今東光や藤本義一ら、(当時の)関西在住作家たちが集まっていたという。
その場所の前は何度も通りかかったけれど、まったく気がつかなかった。
あらためて行ってみると、店は見つかったものの、ドアは閉まったきりだった。
そのうちやっと開店しているときに行き当たった。
私以外に客はカウンターに一人だけ。
その客も注文して出されたジュースを一気に飲み干すと、すぐに出ていった。
そこは生ジュース専門の喫茶店だったのだ。
当時の私にしてはけっこう高い、800円の桃のジュースを注文した。
客が私一人になると、マスターは「あんた、誰に聞いてここへきたんや」
と聞いてきた。
例の新聞記事のことを話すと、
「そんなもの信じたらあかんで」と、二十歳の私を諭すのだった。
当時は「そんな記事を読んでのこのこやってきたら、高いジュースを飲まされるで」
という意味なのかなと思っていたけれど、
ほんとうは「新聞だろうと、他人の書いたものを真に受けたらあかん」
という、含蓄のある言葉だったのかもしれない。
マスターの真意はいまだによくわからない。
ただ、今東光や藤本義一らがよく店に来ていたことはその通りで、
「今東光さんは酒が飲めないからジュースを飲んでいた」らしかった。
ジュース以外には、夜に酒類を提供していたのだろう。
昼に出かけた私がいつも開店前だったのは、
メインの営業は夜だったからかもしれない。
以後、その店が開いているのを見たことがないまま、「8」は姿を消した。
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高田馬場高架下(ペン)

友人と久しぶりに会った。
高田馬場という珍しい場所で、関西人にはうれしい串カツ屋にて8ヶ月振りの再会。

30歳になるかならないかの頃(90年前後か)、
東京に転勤してきた友人とその夜二人して銀座の山野楽器ににいた。
男二人で銀座とは、おそらく映画の帰りだったのだろう。
当時も今も、銀座に行く用事とはまず映画以外にない。
六本木WAVEが当時の先端を行くCDショップなら、
山野楽器は、品揃えとセンスでやはり老舗の風格があって
銀座に出たら必ず寄っていたCDショップだった。
(ちなみにここは今もまだ健在)
その日店内の客は少なく、おそらく閉店時間も近かったのだと思う。
二人並んでLDだったかCDだったかを物色していたら、
アメリカ人に声をかけられた。
ちなみに当時はまだDVDはなくて(!)、
販売メディアがVHSかLD(絵の出るレコード「レーザーディスク」)だったとういうのは、
たかだか25年ほど前のことなのに隔世の感がある。

ところでアメリカ人のおじさんは、
「ミスサイゴンはどこに置いてあるのだろうか」と我々に英語で聞いてきた。
おじさんを案内したのは英語に堪能で、Sellメディアにも極めて明るい友人で、
実はおじさん、たいへんなミスサイゴンフリークスだとわかった。
ブロードウエイはもちろん、世界中の舞台を見て回っているのだという。
こういうマニアは意外に多くて、たとえば劇団四季のミュージカルを
日本全国で見て回っている人が友人の同僚にもいるそうだ。
同じ演目でも演じる役者が違っていたり、脚本が少し変わっていたりするらしい。
その違いを楽しむという贅沢な趣味に驚いたものだ。
しかしおじさんの場合は世界を股にかけていてスケールがちょっと違う。
再度話を戻しておじさん、ミス・サイゴンを世界中見て回ってきたが、
日本の本田美奈子の舞台は、世界中で最も素晴らしかったと絶賛していた。
海外作品を日本人が演じて、さらにはるばる海外からやってきた目の肥えた観客が、
本場のブロードウエイよりもよかったと直に聞くのは
何ともうれしく、誇らしかった。
まったく惜しい女優を亡くしたものだ。

ところがミュージカル好きでサイゴンおじさんを案内した当の友人は、
この日その話を私から聞いても、
まったく覚えていないのにはもっと驚いた。
1982年頃の大阪市中央卸売市場
(水彩にカラーコンテ)

東京の卸売市場のことが話題になるにつけ、大阪の中央市場のことを思い出す。
蔬菜部(野菜市場)で20歳頃に働いていたのは、もう35年も前のことになる。
鮮魚ではなく蔬菜を選んだのは、魚は朝が野菜より2時間近く早く、
学校に通うにはちょっと無理がありそうだったのが理由だったように思う。
記憶の中に残る場内の風景は10年くらい前のようにはっきりしているのだけれど
それを画にしようとすると、途端に輪郭がぼやけてくる。
市場の建物は10年以上前に建て替えられてしまっていて
実際にこの目で見ることはもうできなくなってしまっている。
(ちなみに建て替え費用は1300億円だそうで、
 それでも当時は高すぎるんじゃないのかとの声あり)
検索の仕方がまずいのか、建て替え前の施設の写真をネット上に見つけることができず、
私が持っている唯一の写真もモノクロの一枚きり。
ここを離れて10数年後、帰省時に立ち寄った時に撮ったもの。
その頃凝っていたモノクロ写真で撮影してしまったのが今は悔やまれる。
もう見られないから画にしたい。
休日以外の朝は荷を運ぶトラックと労働者がひしめき、
じっと立っているとはじかれそうな活気がたぎる食材の町。
ただ、私の記憶にある風景は温かく、懐かしい。
野田の町を離れて数年後、市場は映画ブラックレインのロケ地にもなった。
猥雑、オリエンタル、ラビリンス、
それらは外国人の「フシギの国・日本」への想像力の入り口だったようだ。
そういえば、ブレードランナーも大阪っぽい。

市場は中之島の西の端から川を隔てて対岸に位置する。
そう考えると中之島というのは長くてパリのシテ島に似た感じにも思える。
ただ、市場の正面口から中之島を見たという記憶が全くないのはどういうことだろう。
市場の左岸を流れていた大きな川が安治川だったというのは、地図を見ながら今知った。
淀川の支流、大川を市役所のある東の端で二方に割り、
再度西側で合流したところで再び2つに分かれ、
右に安治川となったところに市場はある。
一度学校の帰りに、大阪湾の海の見えるところまでバイクで出てみようと
町を通り越して西に向かったことがある。
海まですぐ目と鼻の先のはずだけれど、これがなかなか出られない。
日はすでに暮れてどこまで行っても黒々とした工場の町が続いている。
今、工場は警備灯が不夜城のように輝き、
その夜景は函館よりも美しかったりする。
しかしその頃その辺りの工場の夜は、暗い街灯に沈む闇の中だった。
焼けた金属くさい空気、抜けられない道、
スチールウールの塊のようにもつれた町だった。
今地図を見ると、同じ場所には「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」とある。
安治川挟んで対岸には天保山の水族館、海遊館もある。
夜の底にひろがっていた黒い工場群は、どこに行ってしまったのだろう。
あの日、夜の工場の闇の中でぐるぐる走り回って抜けられなかったのは
今となっては夢の中のラビリンスになっている。

Tag:Landscape Paysage 風景画

無題_20150628(オイルパステル)

はじめてひとり暮らしを始めたのは、大阪の野田というところ。
この画のアパートよりは大きかったが、似た感じの建物で、
大阪中央卸売市場の城下町とも言える、戦災からも免れた数少ない古い下町だった。
それまで全く知らない町であったが、昼間は画の研究所へ通い、
朝の空いている時間は卸売市場で働いて学費を稼ごうという腹づもりだった。
とすると、住む場所は電車の始発前に、市場へ歩いて通える場所でなくてはならない。
東京の山手線にあたる大阪環状線の高架を走る電車から
眼下に広がる町を見おろして当たりをつけると、駅に降りて探し出した。
部屋を探すにはまず不動産屋へ、ということを思いつかず、
歩いて目についたアパートのドアを片端からたたき、
「空いてる部屋はありませんか」と聞いて回った。
そんな飛び込みの部屋探しする者をそれほど不審にも面倒にも思わず、
空いている部屋があれば住人の人が案内してくれたり、
離れたところに住む大家さんに連絡してくれたりした。
世間というのは何かにつけ、若さに甘い。
それがまた若者の成長を促す土でもあったのだ。

そのとき見たいくつかの物件は今もよく覚えている。
ある部屋は窓を開けると、隣の建物の壁が目の前30cmほどに迫り、
暗い裸電球一つがぶら下がる部屋は昼間も真っ暗で、若さの勢いはいきなりくじかれた。
案内してくれた人はうしろから
「半年前にひとり暮らしのおばあさんがここで亡くなりました」と言って追い打ちをかける。
またある部屋は、すべての障子紙が破れていて、短ざくのように風になびいていた。
ゆれる紙切れにはすべて、なにやら筆で書かれた細い文字が見え、
さながら耳なし芳一の部屋を思わせた。

けっきょく決めたのは「源氏荘」という、窓枠に至るまですべて木造のモルタルアパート。
昭和37年築の二階の角部屋、フロなし3畳一間のウナギの寝床のような部屋だったが、
窓が三カ所にあって日当たりがよく、
ガスが部屋に来ているので、自炊できるのが助かった。
中華料理屋で高校時代からバイトしていたので、メニューはほぼ毎日中華だった。
そこに住む全員が銭湯通いなので、夕方、あるいは夜になると、
誰彼となく洗面器を持って出かける。
近所に銭湯は4つもあって、行きつけの湯が休みの時には、
別のところへ行くのも楽しいものだった。
大阪中崎町の研究所までバイクで10分ほど、家賃は9千円と格安だった。
ここで半年働き、貯めたお金で残りの半年は画の勉強に専念した。

東京に来てからは、部屋を探すときにはさすがに不動産屋さんにお願いする。
それでも古いモルタルのアパートを見ると、
ドアをいきなり開いて「空いてる部屋はありませんか」とやっても、
それもアリなんじゃないかと、今も思い込んでいるフシがある。

Tag:風景画 Landscape Paysage

もうすぐモスクワ

話はひと月ほど前のこと。
3月はじめに古い友人と会った。
今から23年前に私がはじめて海外への旅に出たとき、
横浜港からナホトカ行きの船に乗り、モスクワ行きのシベリア鉄道で同乗したうちの4人だった。
その時、職業も出身地もバラバラにもかかわらず、列車内のみんなは妙に気が合った。
私は30歳を前にして初めての海外への旅であり、
見るもの聞くものすべてが珍しく、毎日が新鮮な驚きの連続だった。
当時のソ連は1ヶ月後の崩壊を前に物資が極端に不足しており、
デパートのショーケースには、とくにモスクワではほとんど商品が並んでいなかった。
(極東付近では意外に何でもあったが)
列車の食堂車に食事があるのは決められた時間だけ。
卵や肉は途中駅に停車するたび食堂車の裏から売りさばかれ、
モスクワに着く頃にはスープに具はなく、
駅で売られているピロシキの中身はじゃがいもだけだった。

ヨーロッパを自転車で回るつもりだったK君は帰国後、
「自転車はみなさんと別れてすぐ盗まれました」と話してくれた。
彼はその後あっさりと自転車の旅を諦め、
1年近く放浪した旅先から、ゾウガメの背に乗った写真を送ってきた。

IT技術者のY君は、列車に同乗していたオーストリア人二人に、今もフンガイしている。
Y君含む彼らは列車内で仲良くなったロシア人のおじさんに
ビンに入ったハチミツのおすそ分けを勧められた。
その様子から、おじさんが相当大事にしているのは明らかだった。
「なめていいよ」と言われてスプーンにもらった一さじは、驚くほどおいしかったそうだ。
ところが同じように勧められたオーストリア人の若者二人は、
そのハチミツをおじさんが席を外している間に、ひとビン全部なめてしまったのである。
そのあとどうなったかわからないが、あの二人は許せないと、
Y君は今も(吹きだしながら)訴えるのである。

帰国後すぐに一度はみんなで再会したが、あとは茫々23年間の月日が流れてしまった。
きっかけとなったのは、岡山で和菓子職人をしていたS君が2月末に電話をかけてきてくれたこと。
それまで年賀状のやりとりだけは続けていたものの、
「今年こそ会いましょう」と言いながら、長きにわたって会うことの無かった4人が
今回はあっという間に日時と場所を決め、再会となった。
やはり実際に声を聞いて話すことは大事だ。

懐かしい顔はそれなりに時間の経過を刻んでいたものの、
あの日と変わらぬ冗談を言い合い、23年の時間を越えて笑い合った。
人間というのは一生を通じて、それほど変わるものではない。
宴の話題は現在のことよりやはり当時の旅、
とくにバイカル湖のあるイルクーツクで別れて以後のことに花が咲いた。
4人の中では比較的旅が短かった私が、どういうわけか一番しゃべっていたようだ。
旅は楽しく刺激に満ちた、一生に何度もない大切な時間だったことに意見は一致する。
私が当時、「20年後に再会したときには、みんなでローカル列車に乗って旅をしよう」
と話したことがあったらしい。
すっかり忘れていたが、覚えてくれていたことが何よりうれしい。
いつか実現できればそれもまた、忘れられない楽しい旅になりそうだ。

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