調理場油彩、F6)

週末、帰宅したらめずらしくお中元が届いていた。
驚いたことに荷送主は高校時代のバイト先のおじさんからだった。
「おじさん」というより「おっちゃん」がしっくりくる中華料理屋。
店は奈良から大阪へ抜ける生駒市北田原町の国道沿いにあり、
近所は茶せんの産地で有名だったものの周囲は(当時)田んぼだらけ、
店の子供たちが狐にだまされたこともあるというほどの田舎である。
ここで高校時代は季節の休み全部と週末フルで働き、
卒業後も不定期ながらも時々、上京するまでの足かけ10年近く手伝ったことになる。
「ひと夏のつきあいが一生のつき合いになってしもうたなぁ」とよく言われたものだった。
自宅からも遠いこの店で働くことになった経緯は、いろんな偶然が重なった結果である。
最初は自転車で、免許を取ってからはバイクで通った。
味がよく店主夫婦の人柄もあって、店はへんぴな場所にありながらも繁盛していた。
バイトは常時必要としていて、私の弟も渡米前の一時働いていたこともある。
しかしここまで通う者が誰もいなかったのか、他の顔ははついに見ることがなかった。

その後私は上京し、帰省時も滅多に顔を出すことはなくなり、
年賀状のやりとりだけがお互い生きている知らせだった。
そのおっちゃんからのお中元、何かあったのかと思わずにいられない。
すぐに電話をしてみたが「現在使われていない」という。ますますおかしい。
試しにネットで検索してみたら「食べログ」にそれらしき店の情報が出ていた。
「味がいい」「安い」とあるものの星三つの評価は店の古さや暗さがあるようだった。
レトロなんて書き込みがあるとは全く想像もしていなかった。
店はあの頃、新規開店したばかりの店だっただけに、
30年の歳月が否応なく流れていたことを思い知る。
さらに驚いたのは「今年二月、諸処の事情により閉店しました」との長男による書き込みだった。
店を継ぐ修行中だった次男坊はどうしたのか。

お中元の三輪そうめん包装紙の店に電話をかけてやっと連絡先がわかった。
慌てたのか、引っ越し先を知らせるつもりで出した伝票の住所が古いままだったということだ。
ひとまず無事を確認して安心した。

その頃店は飲食店ばかり隣り合って5件並んでいたが、一軒また一軒と閉店し、
いつの間にかおっちゃんの中華料理屋一軒だけになると客は激減したとのことだった。
セガレは閉店後、別の仕事に就いているという。
父の仕事を継ぐといってついてきた子供に
経済的、社会的環境の変化でそれができなくなったとき、
父親というのはどういう気持で決断を言い渡すことになるのだろうか。
昨今の不況で近所のセガレの同級生の店が閉店になったとき、
やはり同じ感慨を持ったものだった。
そこは祖父の稼業を同級生の父親が継いでいた。

中華は調理師の中でも調理、仕込み、そして掃除に最も体力がいる職種で、
「60を超えたらお好み焼き屋に転業する」と言っていたのにそうしなかったのは
次男坊が店を継ぐと言って、調理場に入ったからだったに違いない。
今となっては年齢的にもおっちゃんひとりでは続けていくことに無理があると、
この2月ついに店を閉じたそうだ。
あの頃35歳だったおっちゃんは、信じられないことに今は70を超えている。
驚くにはあたらない、16歳だった私も50を超えているのだ。
あの料理、ラーメンはもう食えないんだなと思うと寂しいと同時に、
人生が有限であることの感を強くする。
まだ学生の頃、お世話になったお礼に店のポスターを手書きで描いて贈ったことがあった。
店を閉じた後は額を入れ替え、今も大事にしていると聞いて胸が熱くなる。
「贈る」というにはあまりに稚拙な絵柄に、今となっては申し訳ない限りだけれど、
それでも感じるものがあって、そうめんのお礼に週末一枚、油彩で描いた。
あの頃の店とおっちゃんの後ろ姿を思い出し、写実に寄らない画にしてみた。
画の中のおっちゃんは今も40歳くらいだし、冬でも暑い調理場はこんな感じだった。
壁の色は替えて描いたが、ボウルやネギ、卵の位置は合っているか気になるもののうろ覚えだ。
カウンターにはたこ坊主のようなおかしな常連客が座っている。
そういった客の面々、茶せん作りの名人、鉄工所の親父、そして犯罪歴のあるこのたこ坊主も、
皆一足先にこの世の人ではなくなっている。
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Tag:油彩 Portrait

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