昨日朝の記事(日経)、保育園の騒音によって近隣住民から訴えられているという。
保育園の近くに国道が走っていて、トラックの騒音がうるさいというのではない。
訴えられているのは保育園であり、訴えているのは住民である。
「騒音」は子どもたちの声なのだとある。

20141025-4

実を言えばうちも以前、近所の人から怒鳴り込まれたことがある。
公園が狭く少し遠かったため、自宅前の遊歩道が子どもたちの格好の遊び場になっていた。
声も身体もひときわ大きかったセガレが目をつけられ、
やや興奮してやってきた女性は、落ち着いてみれば新聞の記事と同じことを訴えていた。
子供が元気に遊ぶことが大事でその場所が不足しているというのもわかる、
ただ他の場所でやってもらいたい、ということだった。
場所を移したその先でもやはり苦情が来た。
そのときは近所の問題だと、私はひたすら頭を下げるしかなかった。
しかし全国で同様のことが起こり、訴訟にまでなっているとなれば
これはよくよく考えてみなくてはならない。
「今まで静かだった場所が(子どもの声で)そうでなくなったから、住環境が侵された」
と考えることも、言葉の上では理解できる。
しかし、子どもの声がうるさく感じられ、それを排除しようとする、
子どもの声を「騒音」に感じる社会は、はたして自然の理にかなった社会なのだろうかと。。

これは住宅密集する都市部だけではなく、全国的な傾向にあるそうだ。
3世代が同居することが無くなったことがこの傾向を後押ししている。
若い世代が高齢者を大切にしなくなったことを言われて久しいが、
同時に高齢者側も近くに子どもの存在が無くなり、
その声をうるさく感じられるようになっていたということである。
静かな住環境を求めて保育園建設に反対するのは記事を読む限り、
近くに子どもの存在がない、主に50才以上の高齢者である。
しかし、今子育て世代の親も、いずれ子育てが終わって夫婦だけの生活になったとき、
同じように子どもの声を排除しようとする側に立つ可能性は高い。
うちに苦情を言って来た女性も3人の子どもを育て上げたと言っていた。

私が子供の頃、育った団地にはあふれんばかりの子どもがいて、
建物と建物の間はいつも大勢の子どもたちの声が反響していた。
保育園の「騒音」の沙汰ではない。
建物の周囲に植えられていた芝生は遊ぶ子供に踏まれて常にはげ上がっていた。
今、その団地に子供の声はない。
下の写真の公園、危ないからとブランコと木登りの木は撤去され、
ネコが糞をして不衛生だからと砂場は埋められた。
広場の芝生はゴルフ場のように生えそろい、運動場の真ん中にさえ雑草が生えている。
きれいで静かではあるが、死んだような町である。

子ども、大人、老人、
この3者の関係がうまくいっている社会は、きっといい社会だろう。
今日本でこの3者がうまくいっていないのは、バラバラに生きているからだという気がする。
子どもも大人も老人も他者の顔を見ない生活が、
自分と関係のないものが原因で被る不快な出来事は、
これを排除しようとする心理が働くのかもしれない。
こんなことを思った。
近くで子どもたちの声が気になったら、窓からまず彼らの姿を見てみてはどうだろう。
声だけを聞いていれば「騒音」にしか聞こえなくても、
子どもの遊ぶ姿を目にして聞く風景は、また違ったものになるのではないだろうか。
不快なものを排除するだけではいずれ反動は社会に返ってきて、
取り返しのつかないことになる気がしてならない。
日本から、近所から、子どもの姿はどんどん少なくなっているのだから。

20141025-2
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