「自分はあそこを襲撃します」と、国会議員や警察が計画書まで手渡されながら、
たったひとつの養護施設を守れなかった話なんてあるのだろうか。
犯人は極端な思考を持った例外的な人物だと思いたいけれど、
残された文章からうかがえるのは、かつてどこかで聞いたことのある内容だ。
どこで染まったのか、弱者排除の思考が歴史を越えて蘇ってきたことに戦慄する。
計画を知らされた者がとった、どこかよそ事のような対応と酷薄さにあきれ果てる。
さらに、犯行後もさまざまなひとを傷つけるに違いない内容の犯人の文章を
繰り返し読み上げるTVの無神経にも言葉を失う。
ドイツはじめ欧州の国であれば、そのまま読み上げるなど許されない内容のはずだ。


5年前の東日本大震災が起こった直後のTVでは、
何もかもが不足する被災地で診療を続ける医師の姿が映し出されていた。
その時に放映された特番で、辺見庸が語った言葉が今、強く思い出される。
放射能が高いレベルで存在する原発事故のあった周辺で、
なおそこを一歩も引かない医師を見て辺見庸は、カミユのペストを引用して言った。
あれが小説の医師、ベルナール・リウーだよ。
あれが誠実さっていうもんだ。
なにもかもが失われて着の身着のままの寒さに震える被災者の群れが残されたとき、
必要なのはあきれるほどに単純なこと、人間の誠実さだと。
その時ほんとうにわかったこと、
混乱の極みにあるが故に、それに乗じるのではなく、いつもよりもう少し他者に優しく。

私はその時まで、そういうときに人の命を救うことができる医師というのは、
自分たちの命よりも重いのだと、そう思っていた。
辺見庸はその時同時に、
震災で置き去りにされて亡くなった老人ホームの人たちのことにふれた。
80(歳)だから、90だから、もういいだろうと、ひとは考える。
施設に入っている自分の老いた母もまた、
若い人、もっと社会に役に立つ人に生きてもらって、
自分たち老人が身代わりになればよかったと思い込んでいるのだと。
しかし、それは断じて違うと、辺見庸は言う。
社会的に弱い立場のひと、社会に何の役にも立たない人こそ励まさないといけない。
そういうひとを尊重する社会でなくなったなら、
われわれはもう人ではない。
被災地でひとを診続ける医師の存在は重く大きい、
診てもらう人々がそう思うのはいいけれど、
社会が、「だからあの人には生きてもらわないと」というのは違う。
若いから、社会に有用だから、役に立つから生きるべきと、そう思ってはいけない。
社会的に弱い立場の人を支える、尊重する社会でなくなったなら、
それはもうひとの社会ではないと、歯がみしながら私も思う。

勝ち組が持ち上げられる。
儲け話に乗り遅れるな。
自己責任があたかも社会のルールのように喧伝され、
能力のないものを社会のお荷物のように見る今の社会の凶暴な顔を見て、
この事件の犯人も変わっていったのではないか。
私たちの社会は、あとどれくらい「ひと」の社会でいられるのだろう。
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