一年に400日雨が降る場所

 07, 2011 21:12
私の実家のある奈良では報道の通り、先日台風の大災害があった。
和歌山よりは死者行方不明者は少ないが、
それは奈良県内の被災地が過疎地だったせいもある。
同じ奈良県といっても私の実家のある奈良市と十津川村のある吉野郡とは
北と南の端にあたり、東京で言う23区と奥多摩以上に遠い距離感がある。
奈良市で生涯を送る人がこの地を一度も訪れなかった、
ということも珍しくはない、というより普通だ。
私は高校の時に友人と単車で紀伊半島を回ったことがあり、
そのときの帰途、十津川村を含む吉野の大台ヶ原を縦に走って帰ってきた。
そのときもやはりそこだけ雨に見舞われた。

十津川村明治災害明治22年8月十津川村、豪雨の時の様子
・・・・

吉野の大台ヶ原は一年で400日雨の降るところといわれているくらい雨量が多い。
一年の降水量の1/3が3日から降ったと報道があったが
これが普通の町、大阪などの雨量の1年分(1400mm)より多いことを知っていないと
今回の雨量がいかに多いかがわからないだろう。
大台ヶ原の年間降水量は5000mmであり、今回3日間で降ったのは1800mmだそうだ。
1800mmとは1m80cmである。
和歌山南部から吉野一帯を平らにして、12才以下遊泳禁止の競泳用プールに
すべてがなったような水の量である。
私が単車で走り抜けたときも雨だったとはじめに書いたが、
ここの道路が(33年前だけれど今もそうだろう)国道の一本道で、
ここが土砂で寸断されれば簡単に陸の孤島となる。
また、切り立った山の底に道、家屋があるため、
避難勧告が出ていたとして、はたして避難する場所などあったのだろうか。
先の震災時に津波被害を受けた海岸の町以上に
避難場所は限られていただろうと思う。
ネットはこのことを伝えているところもあるが、
TVではそうは言っていない気がする。

先日の民主代表戦に末席で顔を見せていた馬淵氏は地元が奈良であり
以前TVで顔を売っていた高市早苗も同じ。
このふたりが現地に入って発言したことを聞かない。
孤絶した村はともかく、
近くの上北村は1800mmの降雨があったにもかかわらず
日頃の用意もあって平常状態らしいから、近くまで行くことは可能だ。
一議員の彼らはもちろん、被災地に入った新閣僚は誰もいないのではないか。
大震災後の対応を思い出すまでもなく、
大臣クラスが入らないと行政は本気で動かない。お金も動かない。
一回の台風災害で100人に迫る死者行方不明者が出たことは近年なく、
今までだったら長靴を履いた土建屋議員が真っ先に乗り込んだものだが
それに対してマスコミが突っ込むところにならないのは、
大震災の後の感覚の麻痺からだろうか。
都会出身の政治家ばかりになって災害が起こったとき、このようになる。
先の馬淵、高市両氏は奈良とはいえ、
吉野のことなど遠い地方のことにしか思えないに違いない。
ちなみに馬淵氏と私は子ども時代に近所で遊んだことがある。


余談だけれど、北海道道央の新十津川町は、今回被災した十津川村から
明治時代の入植者によって作られた町だ。
町のHPを見て驚いたが、明治22年の8月に、やはり豪雨による大災害があり
移住の必要に迫られて、当時原野状態だった現新十津川へ入植したとのことだった。
やはり過去、大津波が記録に残る地震と同じく、歴史上周期的に起こっている災害か。
上の白黒写真は当時の大雨で突然現れた堰止め湖の様子であり(新十津川町HPより)、
今回と全く同じことが当時も起こっていたことがわかる。
以前、新十津川(もしかしたら単なる北海道)開拓当時の
住居の写真を見たことがある。
木の骨組みにわらを束ねたものを三角に組んだだけの風よけのようなもので
ここで零下何十度の冬を越したという記事を読んで驚くより恐ろしかった。
そのような環境下で人間は家族とともに生き抜けるのか、と。
災害によって知らない地へ移ってゆくというのは
かつてこういうことだったのだろう。

心配なのは震災の対応に追われ、新閣僚の誰も現地に入らない今の政府に
今回の台風災害への復興予算は付けられるのだろうかということだ。
過疎地の村の行政は小さく、力を発揮できる政治家は今はもういない。
小さい政府は小さい公共となり、いざというときにっちもさっちもいかなくなる。
政治家の数を減らせという声は多いが、
政治家の数が少なくなれば中央へ地方の声を届ける窓口も少なくなる。

過疎地に道路を造ってどうする、という声もよく聞く。
地方をキャンプ旅行して思うのは、やはり整備された道路が必要だということ。
そこの村で急に病院へ行く必要があったとき
近くに総合病院のようなところがあるのはまれであり、
遠くの病院へ車を走らせるために整備された道路が必要なのは、
すぐそばに大きな病院がいくつもある都会より
切実にちがいないということだった。
家族が急病や怪我でキャンプ場から病院へ夜間、
車で飛ばしたことも何度かあった体験からそう実感した。

国民というのは皆同じ行政サービスを受ける権利がある。
それが民主国家というもののはずだ。
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COMMENT 2

Fri
2011.09.09
12:34

タブロウ #3h4yWL0g

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のまどさんこんにちは。
深い雪の中を会いに行かれたそのご友人は、大切な方だったんですね。

私たちが知らない歴史に埋もれた災害悲劇は無数にあるのでしょうね。
明治の災害はまだ多くの記録に残っていますが、
あれから100年以上経って、防災はどれくらい進んだのでしょう。
都市部に住む我々には想像つかないですが
避難警報が出たとして、避難場所が本当に安全になっているのか。
悲劇はいつも弱いところを襲います。

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Fri
2011.09.09
02:44

のまど #-

URL

タブロウさん、こんにちは。
紀伊半島も山深い事で有名ですね。

私は紀伊山地は三重側の多気郡、三瀬谷までは言った事があります。
雪深い鈴鹿峠を押しながら越えその友人宅まで行った記憶があります。
その友人も四十過ぎで亡くなりました。

私の故郷四国も山深く、明治38年の台風では別子銅山で大規模な山津波が発生し500人以上が犠牲になったそうです。
当時銅山の精錬の為の煙害で山が丸坊主で地表の保水力が無かった事が原因だそうです。

『別子銅山変災の図』で検索すれば当時の様子がイラスト入りで見られます。

別子(べっし)はこれ以外にも大火にみまわれ沢山の犠牲者がでました。

最盛期には12400人もの人達が住み歌舞伎座から病院学校とあらゆる施設があったそうです。

閉山後は高地の為に誰も居なくなり、(色んな話があり)夕方以降は地元の人は特に近づく事は無かったです。

現在は整備され東洋のマチュピチュと呼ばれ産業遺構ファンを惹きつけています。




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