あまりに軽い現代人の命

 10, 2012 22:29
子供たちの歩く列に突っ込む車、
その事故現場でけが人をよそに友人にケータイをかける加害者、
「誰でもよかった」と、見ず知らずの他人を殺傷するふだんはおとなしい、まじめだという人間、
信じられない事故と人間の姿を連日繰り返し見せられる。
どうしてこういう世の中になったのか。
かつての戦争で、おびただしい命が奪われた歴史はわずか60年ほど前のことである。
今この日本で年間失う命の数はその時代よりはるかに少なくなって、
不謹慎な話だけれども、命の重さは本来ずっと重く感じるはずが
現実には逆に軽くなっている気がする。
奪われた命の一つ一つにはその人が送ってきた、あるいはこれから送るべき人生があったはずで、
同時にその周囲には家族などのはかりしれぬ悲しみもまたあるはずだ。
自分の子ども、家族に同じようなことが起こったらと、考えるだけでも恐ろしい。
しかし彼ら加害者には、それを自分が奪ったという罪の重さへの自覚が感じられないのである。

昨年の原発事故では何万人もの住人が、
それまでの生活を根っこから奪われてしまっている現実が、いまだ何も解決していない。
なのに同じ事故を起こす可能性を持つ原発をふたたび動かそうとしている。
安全を確認できたと言っているのはどこかの団体であり、責任の所在もまた曖昧であることの恐ろしさ。
公的な団体名というのは匿名と同じである。
国の代表は「自分の責任において安全を確認している」、という。
こんな冗談のような話が現実なのである。
一年後に同じ席にいるかどうかもわからない人物に責任がとれるはずもなく、
現在に目を向ければ、福島の事故の責任さえまだ誰もとっていない。
あの事故で誰が逃げようとしたか、誰が何を言ったかなど本当はどうでもよく、
皆、誰が原発政策を進めたのか、誰が「絶対安全だ」と言ったのかを明らかにしてほしいと思っている。
そして安全だと言った人物に責任を取ってもらいたいと思っている。

事故当初、最低限、事故を起こした会社の役員は、まず全財産を投げ出して救済に当てる、
そう思っていたのは私だけだろうか。
責任を取るというのはまず「そこから始まり」のはずだ。
「安全です」と言った専門家も同じように責任を取らせないとならないはずだ。
「すいませんでした」と謝って「辞める」というのは、
この大惨事でチリほども責任を取ったことにはならない。
この国の首相は一体自分がどれほどの人間だと思っているのだろうか。
「自分の責任において稼動する」とは今の福島の事故後の惨状を見て、
「自分なら償うことができる」と思っているということだ。
この事故においては時代が時代なら100人単位の「切腹」が命じられたはずで
少し前の日本ではまだそういう感覚が生きていたように思う。
自らの命も、財産さえ担保に入っていないから口では何とでも言えるのである。
昨日は「この夏の電力が足りないから」と言っていながら今日は
「夏以後も動かすことが日本のため」と言い、
「原発は40年で廃炉」と言っていたのに、同じく今日は「40年以上の使用を許可」と言う。
この一言ひと言にはみんなの命がかかっているのである。
我々の命とはこんなにも軽いのだろうか?

電気料金を上げるのも、消費税率を上げるのもいい、
ただしその前に自分の全財産をかけて約束をしてもらえないか。
核以外の発電にするからと、
国民の生活をよくするからと。
消費税を導入した時、そして5%に上げた時、国民へのサービスを良くするからと言いながら、
その後現実は反対になっている。
つまり二度、約束を反故にしている前科があってこれも責任を取っていない。
だから支持できないのだ。
約束も果たさず誠意もない、そんな怪しげな人物や企業に出資する奴はいないだろう。


責任を取らない大人が社会の質を落とし続ければ、やがて責任感の希薄な世代を生む、
それがどういう世の中になるかが早くも現実化している気がする。
そういう社会を治癒するのは一年、二年後にできるような事ではなく、並大抵ではない。
スポンサーサイト

COMMENT 0

WHAT'S NEW?