角が生える

 26, 2012 15:22
画家野見山暁治さんのエッセイに、若い日を回想してこんな文章がある。
「リノセロス」というある怪物をめぐる芝居を戦後パリで見たときの話だ。
その芝居は「天井桟敷の人びと」で有名なジャン・ルイ・バロー扮する青年が
ある日、大きな怪物の犀(リノセロス)が街にやってきたと聞かされるところから始まる。
どんな怪物なのか、憶測を呼びつつ噂をしている間に
角を持ったどう猛なその怪物リノセロスは街に入り込んでしまう。
そしてリノセロスが街を走り回っているうち、次第にその数は増えていく。
怖がっていた人たちの頭にいつのまにか同じような角が生えていたのだ。
一人きりの人間になった青年はそれから逃れようと夜の街を懸命に逃げ回る、というのがそのラストシーンだ。
「角は暴力の象徴であり、知恵に向かっての人間の営みは、たやすく暴力で壊されてしまう。
角の生えた誰かを憎んでいるうちに、いつ自分の頭に生えてくるか分からない」
そういうことを戦争直前、自分たちが置かれた当時を思い出して震え上がった、と書いている。

隣り合い、同じ顔つきをしている国民同士でなんで憎み合う必要があるのか。
一度は治まりかけた問題がここまで燃え上がる端緒となったのは、
舞台となっている島々から遠く離れた土地にいる恐ろしくタカ派の知事が起こした言動だ。
威勢よく胸を張った主張は、国民のフラストレーションをはらすのにまたとないメッセージで、
ふだん全くのノンポリで平和主義の人たちまで惜しみない拍手をし、
この不景気の世に「役立てて欲しい」とお金まで送る有様だ。
自分の頭に角が生えているのに気がつかない。
少なくとも、スポーツや音楽など、文化・芸術に関わる人間は競い合っても戦わず、
まして戦の火種に油を注ぐようなことは決してするべきではない、そう皆わかってはいるが
太く広くなった世論の大河に抗するだけの力は私はもちろん、個人にはないものだ。
昨日まで個人単位で物事を考えていたはずが、
いつか国という大きな団体の一員として思考していることに、ある日気づくことになる。
坊主頭にヒゲ、という今の若者によく見るスタイルが、
ある日軍服に着替えて違和感なく登場する可能性は0とは言えない。
意外やそのスタイルは、男らしさとファッションセンスと人びとの支持を同時に得られる気がする。
人の転身は早く、その時はそうとは気づかぬうちに迎合に走っているものだ。
戦争前夜とはそういうものではないのか。

人の命や平和と引き替えに出来るような重要なものがそうそうあるとは思えない。
人の命とひと言で言うけれども、それは自分の家族の命、友人知人の命ということである。
国という単位で考えれば一つの駒にすぎないが、個人で考えればそれは何よりも尊いものだ。
それをひと言で危ういものにする、一見無邪気にも見える人びとには実は角が生えているのではないか。
腰抜けで結構、平和こそ最高の世の中だ。
失って初めて気づくのではあまりにも犠牲が大きい。
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