事業仕分けに思うこと

 26, 2010 15:08
ソ連のパフォーマー

神保町で偶然手にとった古い雑誌にあった記事。

ドイツのある公立劇場でのこと、
ある時、そこでは若い演劇集団が全裸に近い姿で
一般人にはとうてい理解のできないパフォーマンスを演じていた。
道行く人に尋ねてみる。
あなたはこれをどう思うかと。
「まったく嘆かわしいね。」
しかしこの演目と会場運営はあなた方の税金でまかなわれている、それをどう思うか、と。
通行人は間髪おかずにこうこたえる。
「それは必要だ。自分が理解できるかどうかとその価値とは全く関係ない。
 若者が本当にやりたいことをやらせてやるフォローは必要だよ。」
ただの通行人にしてこういうことを言えるのである。
・・・・

昔、今日出海(作家で文化庁長官)のエッセイの中で読んだ話。
フランスで日本文化を紹介する展覧会が企画された。
その中には仏像なんかもあったらしい。
その梱包を解いている時のこと、作業中仏像の前を通るたびに
作業員はひとりひとり帽子をとって黙礼してから通っていたそうだ。
日本では、清潔なユニフォームを着て作業にあたる美術品運送業者スタッフたち、
彼らの作業クォリティの高さは世界一かもしれない。
しかし仮に同じ仏像を前にした時、どういう所作をしているのだろう。
海外でもとくに欧州だが、芸術に対する深い理解と尊敬は
歴史が培ってきたものだ。
こういう一般レベルの街のコメント、市民の優雅な身のこなし、美術品に対する深い敬意、
すべてに日本との文化レベルの断層を感じる。
政治家の軽すぎる発言、行政の無駄遣いと同時にカットされる文化予算と
国全体の文化レベル、実は底の部分ですべてつながっている気がする。


ちなみに、芸術に官の援助は必要だろうか。
一刀両断にはできない問題だが、とりあえずは必要と言いたい。
甘っちょろくはないか?という意見もあるだろう。
ゴッホは生涯、一枚の絵も売れなかった(違った、友人の姉に1枚だけ売れたのだ)。
(この伝説が今も売れない絵描きを支えている、という功績はある)
ベラスケスは平民から王族と対等の位置まで登り詰めた。
しかし両者とも、金があってもなくても絵は描き続けたはずだ。
では飢えている方の天才は凡人の手で、せめて支援すべきではないのか、
と凡人の私は思うのである。
努力する天才が飢えているのはいたたまれない。
生活が保障されることによって怠惰をむさぼる人間も必ず出る、という意見もあるだろう。
天才だけを援助する、というのがそもそも虫のいい話だ。
天才、あるいは傑作を見分けられる人間がどれだけいるというのだ。
ルノワールでさえ、マチスの作品への評価は「?」だったという。
しかしその後に続けて
「私に理解できないからと言って、それがマチスの作品の価値とは一切関係はない」と、
やはり言っている。
ちなみにルーブル美術館の所蔵作品はすべて傑作ばかりだろうか。
実はこれも、約9割は「あちゃー、買っちゃったけどさぁ」という作品なのだそうだ。
つまり、買った当時は作家や作品に時代の勢いというものがあったものの
時がたってみれば凡作の位置に納まり、今となっては捨てるに捨てられないものになっている、
という作品が何十万点もあるというのだ。
(~美術館展、というおおざっぱな展覧会には気をつけないといけない)
ルーブルでさえ、アタリはわずか10%なのである。
10%の傑作を残すには「官」は少なくとも、90%のハズレに投資する必要がある、
ということが言えるかもしれない。

事業仕分けがすでに三回目を経ている。
官の無駄を省くと言っていたが、それを穿き違えているところはないだろうか。
第一回の時にはノーベル賞学者や日本人宇宙飛行士までが
「日本のために、やめてくれ」と陳情に来ていた。
選挙時、民主党は「官の無駄を省いて~」と言っていなかっただろうか。
芸術や科学の進歩は「官」ではなく「民」の幸福のためにあるのではないのか。
それを削ってどうするのだ、と。

ちなみに写真は、私がはじめて海外を旅した時に、
最初の国ソ連のハバロフスクで見た、当時おそらく街でただひとりだったろう、
シンセサイザーを携えて演奏するストリートミュージシャンである。
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