18年

 18, 2013 01:21
映画監督の黒澤明は小学生低学年の頃に関東大震災にあった。
震災の翌日、まだ煙がくすぶり、黒焦げの死体がそのままになっている街に兄とともに出て行った。
その頃は武家の血を引くのに非常に泣き虫であり、死体を怖がる彼をかなり年長の兄は
無理矢理手を引いて連れて行き、「よく見ておけ」と言って丸一日、
まさに地獄図絵を見せてまわったと、自伝(「蝦蟇の油」だったか)に書いていた。

阪神淡路大震災があった時、私はすでに東京へ来ていた。
当日はテレビも見ないで仕事先へまっすぐにやってきたため、
震災のこと一切を知らず、取引先の人が顔色を変えて「大丈夫だったの?」と聞かれて
初めて知ったわけだった。
奈良市内の実家は被害と言えば、
私が残してきた石膏像ヘルメスが落ちて粉々に砕け散ったくらいだった。
それから四ヶ月後、GWに帰省した折、神戸はもう落ち着いているかと、
それに先の黒澤明監督の話を思い出し、あるいは関東も大きな地震が必ず来るとも聞いていたので
一度は見ておこうと思って神戸方面へ出かけたのは、95年の5月4日のことだった。
電車はまだ西灘駅までしか開通しておらず、そこからは歩かねばならなかった。
昨年春、金山平三展を見るために同地を再訪した際、
痕跡すら見当たらないほどに再興されていたのに驚いた。
17年もたっているのだ、当たり前といえば当たり前で、
当時四ヶ月しかたっていなかったが、電車の開通していない被災地も
大通りにすでに自動車は普通に走っていた。
東日本の震災の復興の遅れが異常なのである。
政治家の無能もあるが、言うまでもなく、原発が同時に廃墟になり
放射能を今に至ってもまき散らし続けているいることが阪神淡路とまったく違っている。
福島に原発がなければ、東北一帯の被災地は、今頃はまったく違った風景になっていたろう。

同じ三宮方向へ歩く人は自分以外にも多く、おそらくはGWを利用しての見物に違いなかった。
その物見遊山の野次馬は、そのまま私自身の映し鏡にも他ならず、
今さらながら自分の行動が恥じられた。
人の行かぬ方向へと足を向ければ、かえって被災者の実生活の場へ入ってしまうことになった。
三宮駅前まで来た時、崩れ落ちた阪急百貨店の廃墟が大きな口を開けているのが見えた。
そしてすぐ目の前の歩道の手すりには多くの貼り紙がしてあった。
「ワシらがんばってる。だからもう見に来るな」
どれも同じ事が書かれていたその文言が、その日最も忘れられないことだった。


阪神淡路大震災
西灘駅構内には被災しながらも営業中の喫茶店があった。
18年前とはいえ、物価はデフレのせいでそれほどは変わっていないはずだ。
関西がいかに安いと言っても、「カレー300円」とはすごい。
被災者も来やすいようにとの配慮だったかもしれない。
「ナタデココ400円」というのもまた時代である。
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