画家を描いた映画「モンパルナスの灯」

 07, 2010 21:20
映画「モンパルナスの灯」ジェラール・フィリップ

筆を執るようになってからこの一年、映画を見る本数が減ってしまったが、
過去、けっこう見ている方だと思う。
黒澤明作品はリバイバルか自主上映を中心に、すべて劇場で見ている。
(ちなみに景気が悪くなってからはまったく劇場へ行っていない、というより、行けない!)
ところで、ここで触れたい映画はただ一本、画家の映画の傑作「モンパルナスの灯」である。
これまで画家を扱った映画はたくさん作られてきた。
有名な俳優が主演し、有名な監督が撮った作品も多くあるが、
私が一度ならず再見した画家の映画はこの「モンパルナスの灯」ただ一本だ。
3年ほど前にリバイバルを劇場で見たものを含め、ビデオでも10回以上は見ている。
しかし私に限らず、本作の熱烈なファンは多いはずだ。
このような作品が「肌に合う」人にとっては全くこたえられない作品であり、
他とは別格の映画だ。
・・・・
作品は1958年仏、ジャック・ベッケル監督による、
モディリアニと妻ジャンヌの出会いから画家の死による別れまでを描いた作品だ。
モディリアニはすでに伝説の中にあり、
まだわからないところもあれば美化されているところもあるだろう。
画家の実像としてはかなり割り引いて見ないといけないにしても
20世紀初頭のパリを描き、エコール・ド・パリの画家を描き、
愛し合った市井の二人を描ききった本作は、まさにモディリアニの絵のような哀愁を帯びた作品だ。

もともとマックス・オフュールスが監督するはずだったが撮影前日に急逝し、
ベッケルが撮ることになった。
クレジットに「捧ぐ」と出るのはこの理由による。
(このあたりの経緯を詳しく書いたブログに以前行き当たったのだが
 今いくら検索しても出てこない。)
また、主役のモディリアニも最初はイヴ・モンタンが演じるはずだった。
どちらもそうなっていたらかなり違った作品になっていただろう。
冒頭 “この物語は事実に基づくが 史実のとおりではない”
と出るのはモディリアニをよく知っている人には一目瞭然なのだが、
一番大きな違いはモディリアニの背後に死に神のようにつきまとう
架空の画商、リノ・バンチェラ演じるモレルである。
モディリアニに迫る死の足音を感じさせるヒールとしての彼の存在無しにこの作品はあり得ない。
しかも周囲の画商たちが忌み嫌っているのに、
彼とジャンヌのみがモレルの存在を知らされていないのがその存在をさらに不気味にしている。
さらに続くクレジット
 “現在 モジリアーニの絵は
 全世界の美術館や収集家が 高額で追い求めている
 だが 1919年当時は見向きもされず
 彼は自信を失い 絶望のどん底にいた”
再見2回目以降ではまずここでヤラレル。。。

本国では批評家から「舞台的演技」とマイナス批評されているジェラール・フィリップだが
あの酔い方、ジャンヌを見る目、ゴッホを語るときの表情、
死に臨んでの迫真の演技(私は白い巨塔の田宮二郎を思い出してしまった)、
どれをとっても私は陶酔してしまう。
見たとおり輝くような美男子だが、名前からして甘そうではないか。
アヌーク・エーメは本作で最高の美しさをフイルムに残しており、本作を先に見た私にとっては
「男と女」「甘い生活」よりも彼女の代表作はこちらなのである。
映画「モンパルナスの灯」アヌーク・エーメ
ジェラール・セティ演じる親友の詩人で画商のズボロウスキーはモディリアニの絵にそっくりだ。

とくに唸ったのは以下のシーンである。

前夜ベアトリスを酔って殴り、失神させたまま帰ってしまった翌日、
路地角のカフェに彼女を見つけたモディリアニがこちらに歩いてくる時のこと、
街角で演奏するバイオリン弾きの前を通り過ぎるとき(全く自然なのでスルーしがちだが)
ポケットから小銭をつかみだして、奏者の前に置いてある缶にそれを入れてやるところ。
自分もほとんど一文無しなのにこういう事をする。
フランス人の礼儀なのか、同じ弱者への思いやりに胸打たれる。
ちなみにベアトリスを演じたリリー・パルマーは撮影当時44歳だった。
なんという溌剌とした「女」を演じていることだろう。
そのあとも、ダンスホールから酒が少し残ったグラスを片手にフラフラと出てきたモディリアニは
外に立っていた昔なじみらしい娼婦から声をかけられると、その残り少ない酒を彼女と分け合う。
このシーンもストーリーには関係ないが、彼の優しさを伝えて余りある。
そしてモディリアニが女性にとてもモテる、そのことの描き方がすばらしく
画家と彼の周囲にいた女性の優しさが染み入るように伝わってくるのだ。

もうひとつ、
ズボロが持ってきた「米国人の金持ちに絵を買ってもらえそう」といういい話を
自らぶち壊してしまった日の夜、酔って帰ってきた部屋ではジャンヌが寝ずに待っていた。
モディリアニは彼女の視線に耐えきれずキャンバスの方へ向くと、
よろよろしながら絵筆を手にとる。
ひと言も話さないが「僕は働くよ、見ててくれジャンヌ」ということなのだろう。
彼にできる仕事は描くことしかない、しかしそれは全くお金になる見込みのない仕事なのである、
それを知っている観客はこのシーンにたいへん胸が痛む。
ここで、ポケットから出したしわくちゃのハンカチで筆の先をちょっと拭き、
キャンバスからは目を離さずに穂先を親指でちょっちょっと確かめて
キャンバスに筆を走らせるところがある。
このシーンでオイルのにおいが漂ってきたと思ったのは自分だけだろうか。
これらの演技を全く自然に見せてくれるジェラール・フィリップを素直に評価したいのだ。
彼はこの作品が公開された翌年に、モディリアニと1歳違いの36歳で、同じく夭折した。
ちなみに作家、ジャーナリスト、詩人でもあった美しい妻アンヌ・フィリップは
彼との生活の回想録「ためいきのとき」(ちくま文庫/絶版)を残しており、
非常に美しい文章で、それこそためいきの出る名文だと須賀敦子もすすめている。
ジェラール・フィリップ

ほかにあちこちのブログでも書かれているように、忘れがたい台詞がいくつもある。
「大勢の中にいるほうが好きだ、孤独になれるから」
「傘は嫌いだ、空を隠すから」「雨くらい、共にしたい」
「君を幸せにしたい。もし不幸にしても、それは心ならずもだ」
「ゴッホが酒におぼれたのは、去年の夏見た黄色を思い出すため」
どれも聞きようによってはかなり芝居がかっているのだが
そう感じさせず名台詞と受け取ることが出来る、受け取る用意が出来ているひとが
この作品を最大限楽しむことができる。
小津安二郎を現代の時間感覚で見ても意味がないように
ラブストーリー、メロドラマの代名詞だった頃のフランス映画には
それを楽しむ心構えが多少必要かもしれない。

美術セットが安っぽいという意見もあるようだが、当時の雰囲気を伝えてすばらしいと思う。
パリの屋根裏部屋の雰囲気は今と大して変わらず、
美術学校のコンセル・バトワールはこんなだったのか、
パリの昔の画廊、個展の雰囲気はこうだったのかと興味深い。
映画「モンパルナスの灯」


全体のストーリーとしては、夭折のモディリアニ自身にとっては晩年にあたる、
この時期にスポットを当てて冗長な人物伝になっていないのが成功している。
「モディリアニの生涯」ではなく「画家の悲運と悲恋」を描き、ラブストーリーを作った。
フランス映画の王道を行くメロドラマではある本作は、背景に実話がある、というところが
いっそう見るものの感情をかき立てるのである。


ところで2004年にはリメイクではないモディリアニを扱った作品、
米国のアクション映画の監督のメガフォンでアンディ・ガルシア主演の
「モディリアーニ~真実の愛~」が作られているが、ガルシアの顔が同じイタリア系の
モディリアニと似ているだけの、全くの駄作である。
なんでこんなスタッフでこんな映画を作ったのか理解に苦しむ。

補足で
この作品にはミシェル・ジョルジュ・ミシェルの原作があり、
かつて文庫でも出ていたのでそれを昔読んだのだが、とりたてて印象に残らない凡作だったと思う。
やはり監督の手腕だろう。ジャック・ベッケルには他に「穴」という傑作がある。
また、監督の息子であるジャン・ベッケルも監督で、
近年「画家と庭師とカンパーニュ」という作品を作っている。
全くのフィクションで主役が画家である必要性もとくにない作品だったが、
庭師と画家の友情をほのぼのと描いた秀作で、ミニシアター系のおすすめ作だ。
ちなみに、主演のダニエル・オートゥイユは最近の仏映画でよくお目にかかる顔で
油断していると「またか!」という感じで登場する。
フツーのおじさんだがコメディからアクション、シリアス系までこなす万能の役者。
顔はぜんぜん違うが、日本の役所広司みたいな位置なのだろうか。
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Tag:画家の映画 モディリアニ モンパルナスの灯 ジェラール・フィリップ アヌーク・エーメ

COMMENT 3

Sun
2012.12.30
01:54

ルミちゃん #k2/3fVuY

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お世辞

【個展の画廊にて、初日】
自分の絵が世間で評価されるかどうか、それを問われる初めて開いた個展であった.一見盛況ではあったのだが、客は、画廊の女主人の友人、自分のアパートの住人、良く言えば身内、悪く言えばさくらばかりだったらしい.
「すばらしい、傑作だ」こう評する客に、ジャンヌは愛想よく酒を勧めて回る.けれども、モジリアニは、客の相手もせず、ふてくされた態度で一人で酒を飲んでいた.そして、アパートの隣人の女が抱きついて「すばらしい」と言った途端、彼は険悪な表情になった.
『お世辞なんか聞きたくない.うわべだけの綺麗事の言葉なんかまっぴらだ』おそらく、モジリアニはこう思っていたのであろう.
あるいは『自分の絵が解る客は、一人もいない』と、客をバカにしていたと言うべきかもしれない.
『成功させてやりたいわ』画廊の女主人はこう言った.確かに客はさくらばかりであったかもしれないが、けれども、女主人だけでなく、集まってきた客は皆、モジリアニの成功を願ってやって来たと言ってよいはず.失敗を願って来たのは画商のモレルだけであろう.
モジリアニは、彼の成功を願う皆の優しい心を、どの様に思っていたのであろうか.
見かねた妻が「飲みすぎよ」と言うと、「じゃ帰る」と、一言言っただけで、誰にも挨拶することなく帰って行こうとした.
「明日来て」困り果てた女主人は、それでも、また明日来るように頼んだけれど、
「なんで」と、逆に、言い返す様な言葉を残して、帰っていったのだった.
今日来た客はさくらばかり.明日は誰も来ない.モジリアニには解っていたのであろうが、けれども彼の個展であるにもかかわらず、来るつもりはないと言うのは、彼の成功を願っている、皆の気持ちを逆なでする言葉であったと思うのだが.

以前に、
『モジリアニは天才か?』ベアトリスが記事にしたのを知って、彼は大喜びしました.
そして、この日は、
『俺は天才だ.だから、俺の絵を解るやつはいない.俺の絵の解る客は来やしない』

【個展の画廊にて、二日目】
来る客はさくらばかり、自分の絵を理解する客は一人も来ないと思い込み、初日のモジリアニはふてくされて酒を飲んでいた.そして、二日目は、客は誰も来ないと思い込み、画廊に来ることもしなかった.
けれども、画商のモレルは明日また来ると言っていた.言葉の通り、彼はやってきたのである.モジリアニの予想に反して、翌日も客は一人は来たのであって、さらに言えば、その客は、数少ない彼の絵の理解者でもあったのだ.

その日、モレルはスロボフスキーにこう言ったのだった.
「彼は酒を飲みすぎる.(だから今は絵を買わない)」
そして、
「運がない」モジリアニには運がないと言ったのだが.

『きっと、誰か一人ぐらいは、自分の絵を理解する客が来るはずだ』、こう考えて、モジリアニが酒を飲まずに、誰か一人でも自分を理解する客はいないのか、丁寧に客の対応をしていたとしたら、どうであろう、モレルは買ったのである.まさに、モジリアニには運があったと言わなければならないのだが、現実のモジリアニは全く逆であった.
簡単に言ってしまえば、『酒を飲みすぎるから、運がない』つまりは『酒を飲みすぎなければ、運があった』のである.この日、モレルは絵を買いに来た.モジリアニがいて酒を飲んでいなければ、モレルは絵を買うつもりで来たのだと思えるのだけど、どうであろうか?
あの酔っ払い相手では、普通は絵を買いたいと思わないであろうし、よしんば買いたいと思っても、まともに話を聞く相手ではないので、買うことも出来ないのではないか.モレルは絵を理解する人間であった.芸術を理解する人間ならば、『酔っ払い相手では商売が出来ないから、死ぬまで、買うことが出来ない.(酒をやめさせろ)』と言うところを、『死ぬまで、買わない』と言ったとしても、何も不思議なことではない、やはり、このように思えるのだけど.
画廊の女主人は、モレルがいやがらせにやってきたと言ったけれど、冷静に考えれば違うようである.彼は、お世辞を言わなかったが、モジリアニの絵を誹謗もしていない.先に私は、モレルが失敗を願ってやってきたと書いたが、それも間違いであろう.

『明日は誰も来ない.明日また来る』とは、『今日は、さくらの客で一杯で、真面目な絵の話は出来ない.彼の絵を理解する人間は多くはいないはず.たぶん明日は誰も来ないと思うので、また出直してくる』彼は、こう言いたかったのではないのか.
そして『彼は飲みすぎる』とは、酔っ払い相手に商売の話は出来ないと、もっともなことを言ったに過ぎないのである.
前日、ベアトリスが『お人好しも、ほどほどにしないと』と言った時、スロボフスキーは『性分でね』と答えたのだが、しかし、お人好しでは商売は出来ないはずである.モレルはお人好しの正反対の人間であったのだが、お人好しでは商売は出来ないと考えれば、例え酷い人間のモレルであっても、きちんと対応しなければならない相手であったと言わなければならない.
単純に考えても、客商売をしていて、客が気に触ることを言ったにしても、売り手が怒ってはいけない.そして、冷静に対応していれば、モレルはものすごく嫌な言い方をする人間だったのだけど、至極もっともなことを言っているに過ぎないことも、解ったはずだと言わなければなりません.

もう少し、書き添えておきましょう.
スロボフスキーとモレル
「どうだ、売れたのかね」
「少しはね」
「何点」
「3~4枚」
「友人にな」
画廊には、彼ら二人しかいなかった.この二人の会話から、初日に来た客は、さくらばかりであったのが伺い知れるのですが.
それはさておき、スロボフスキーは売れた相手が『友人にな』と、本当のことを言われて、その言葉を馬鹿にされたと受け取り、怒り出したのではないのか.『今は買わない』こう言われたなら、『そんなことを言わず、一点でも2点でも買ってくれないか』、と頼むのが商売のはずです.
画商モレルは、商売に置ける至極常識的なことを言っているに過ぎなかった.それに対して、同じ画商でありながら、スロボフスキーは商売の基本を解っていなかったと言わなければならない.モレルは『争わないのが私の主義だ』と言ったけれど、客を相手に喧嘩をするのは、誰がどう考えてもバカな事である.
そして、芸術を扱う商売をしながら、相手の言葉を芸術的に理解できなかったとしたら、これも、何をかいわんやであろう.

警察は、初日は来なかった.なぜなら、客が沢山いたからである.多くの人の支持があれば猥褻ではなく、誰も支持しないと猥褻.と、考えるのは間違いであろう.猥褻な絵は猥褻である.それがどこまで許されるか、その判断が、集まる人の数に因るだけだと思うのだけど.
それはさておき、警察も、ちゃんとお客のことを考えていたのに、モジリアニは何も考えなかったと言うことなのでしょう.

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Fri
2012.12.28
01:21

ルミちゃん #Oa2f/7z.

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虚栄心

>とくに唸ったのは以下のシーンである。
と書かれたシーンは、確かに優しいモジリアニなのですが、けれども他のシーンでは優しい彼であったでしょうか?

一番酷いのは、セーヌ川のほとり
「”死ぬか””いいわよ”」「”橋の下で寝るか”"いいわよ”」「”客を引け”と言っても”いいわよ”とくるか」
『画家の妻』、妻の肖像画を売った金で酒を飲み、残ったお金を河に捨ててしまった.そして、この言葉である.
彼は、妻の気持ちを知りながら、その気持ちを逆なでする言葉で妻を苦しめた.彼は、妻の優しさを受け取ろうとしなかった.妻の優しさから逃げるために酒を飲んで、そして妻の優しさを逆撫でして、妻を苦しめていた.

個展
皆が彼の成功を願っていたが、彼は酒を飲んでいた.そして、酒を取り上げたら、黙って帰ってしまった.
わかりやすく書けば、彼の成功を願って、皆が客を呼んで来たのだけど、彼は客がさくらだと知っていたので、知らん顔をしてお酒を飲んでいたのです.客がさくらだと知っていたので、二日目は誰も来ないことも解っていた.だから「明日も来てよ」と言われて「なんでだ」と言い返して帰って行きました.
これがどういうことか考えれば、妻の場合と同じで、皆の優しい気持ちを知りながら、それを受け取ろうとせず、逆に皆を苦しめていたと言えるのです.

他の出来事も全部同じです.相手から優しくして欲しいと望まれると、優しくする人間でした.けれども、逆に、相手から自分が優しくされると、それをかたくなに拒む人間だったのです.
彼は自分が天才だと思っていました.自分が一番偉い人間だと思っていたと言ってもよいでしょう.偉い人間が偉くない人間に優しくするのは当然だけど、逆に偉くない人間から彼が優しくされるのは、彼の虚栄心が許さなかったのです.
彼の心は欺瞞に満ちていた.その欺瞞から生まれる苦悩から彼は酒を飲み、彼自身を含め皆を苦しめていた.これが、描かれたモジリアニです.

天才が良い人間であったと思い込むのは、作り上げられた伝説と神話を信じることに外なりません.

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Thu
2012.12.27
19:31

ルミちゃん #vXeIqmFk

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何も考えるな

南仏で、娼婦をモデルに描いていた彼は、彼女に『何も考えるな』と言ったのですが、これは芸術の基本と言ってよいのでしょう.
個展の最中、彼は勝手に帰ってしまい、また酒を飲んで家に戻ってきた.本を読んでいたジャンヌは、黙って彼を見つめ、その彼女をモジリアニが見つめると、彼女は目を伏せた.
彼女は黙ったままだった.なんと言ったよ良いのか言葉が浮かんで来なかった.つまり何も考えが浮かばずに目を伏せた.『何も考えない』、そのジャンヌの表情を見たモジリアニは、絵を描き始めました.

彼は、苦悩から絵が生まれると、アメリカの金持ちに言いました.そして、金持ちの男も彼の考え方に同意したのですが.
彼は、苦悩から逃れるために酒を飲む.その酒が妻を苦しめ、その妻の苦悩の表情、苦悩から逃れようとする表情を描いていたのです.

アメリカの金持ちは、彼の絵を、化粧水のラベルにすると言いました.
『目元がすばらしい』
『別世界を夢見る目だ』
この絵を化粧品のラベルにすれば、女性の美しくなりたい言う願望を呼び起こすことになる、金持ちの男はこう考えたのでしょう.
あるいは、苦悩から生まれた絵は、女性の苦悩から逃れたい心を呼び起こす、つまり、美しくないたいという願望を呼び起こすことになる.
どちらでも同じ、アメリカの金持ちは彼の絵を正しく理解していたのであり、絵に対する侮辱ではない.けれども、モジリアニは、自分の絵が正しく理解されていないと、金持ちの男を侮辱する態度で帰ってしまったのです.

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