(3)高村山荘

 09, 2013 02:12
三回に分けて書くつもりが四回になった。
光太郎さんに関しても、作品から人生、
それも智恵子さんを亡くして以降、晩年になると少し切なくなる。
けれども、高村光太郎という人を考える上で避けて通れない話だ。
以下の文章は、私自身が本や作品にあたって考え、思い、感じたことなので、
浅かったり、足りないこともままあると思うので、その点はお許しください。
光太郎の写真

光太郎さんは戦争中もこう言った。
美術や文学はひとを内から支える機能に富む、その美は必ず人の力になる、
だから自分は一匹の蝉、一尾の鯉を彫ることをやめない、
そう宣言したのに智恵子さんを失った後、失意の中で戦意高揚詩を書く。
その戦争に臨んで書いた文章と詩、そして敗戦を迎えて書いた詩を
一部ペンクラブのサイトで読むことが出来る。
戦争が終わった時、周囲はもちろん、なにより自分が自分を強く責めた。
詩にもなっていないような詩「わが詩をよみて人死に就けり」には、
自責の言葉が痛々しい。
・・・・

戦争中はほとんどの文化人が戦争に協力したそうだ。
日清、日露ではこのような責任の問われ方はしなかった。
戦争が終わった後でそういった行動を後世の人間が責めるのはたやすいが
戦争も戦後も知らない我々の世代がそうするのは少し「恥」がともなう。
純粋な精神が大きな流れに巻き込まれ、
戦争に対する批判精神を失ってゆくのはなぜかを問う方が、
今は得るものが大きいだろう。

私なども間違いの多い人間であり、
そのつど謝ればすむこともあれば謝っただけではすまないこともある。
先の原発事故後は謝ってすむ問題では全然ないのに誰も責任を取っていないこの時代、
ひとりの人間としての責任のとり方を、高村光太郎の晩年の生き方に見ることが出来る。

光太郎さんは戦後一切の言い訳をせず、
そのざんげと自責の念から人里離れた岩手の山に小屋を建て、そこに移り住んだ。
山での生活を伝える文章はいくつも残っているが、
「みんな親切でいいところですよ」
「フォンテーヌブローの森のようです」といった良いところだけをそのまま受け取って、
牧歌的な生活を思い浮かべると理解を誤る。
山での生活の過酷さは生半可なものではなく、
厳寒の東北の冬に、すきま風と雪が吹き込む粗末な小屋の中は零下20度にもなる。
いつも濡れたように湿気た布団の上には、吹き込んだ雪が積もり、
吐く息は布団の縁でたちまち凍ったそうだ。
また、水道もないところで野菜を食べたせいか(びろうな話で恐縮だけれども)、
体内に寄生した虫が口から出てくるほどだったという。
そんな過酷な環境で70歳近い都会育ちの老人が、はたして一人で暮らせるものだろうか。
しかし光太郎さんは実際にそこで69歳まで7年間、たった一人で自給自足の生活を送った。
面壁九年、山居七年、どんな苦難もやり通すつもりだったという過酷な山の生活は、
自死の決意さえ伺える。
結果的にはやはり、極めて頑健な光太郎さんの寿命を短くしたとしか思えない。
冬の高村山荘

智恵子さんを失い、戦争協力を責めた自省の日々、
光太郎さんの寂しさはいかばかりだったろうか。
ところでこの事は「自省のための隠遁」と言われているが、
私はこの光太郎さんの山ごもりが実は、誰かに追放されるより自分で去る事を選んだ、
いわば積極的な自制だったのではないか、という気がしてならない。

光太郎さんはこの山奥においては村人から尊敬され、温かく迎えられた。
上の小屋の写真で左側の風雪よけは村の若い人が毎年作ってくれたものだし、
小屋自体、使われていなかった飯場小屋を、解体移築して彼らが手で運んでくれたものだ。
小屋は現在花巻に、記念館「高村山荘」として保存されている。
その小屋を保存のために覆っている覆堂もまた、
村の光太郎さんを慕う人、一人一人が持ち寄った材木によるものだ。

彫刻や絵画などの制作活動から一切身を引く日々を送ったが、
後年いろりの灰の中から小さなウサギの首の像が見つかったということだ。
実物を以前私は展覧会で見たはずだが、その事情を知らなかったので記憶には残らず、
今は写真によって偲ぶだけである。
スポンサーサイト

COMMENT 0

WHAT'S NEW?