ドガ展、2010年の連続巨匠美術展と洲之内徹の「気まぐれ美術館」

 13, 2010 19:48
ドガ展
横浜のドガ展に行ってきたが、やはりすばらしかった。
もう生きているうちに日本で「エトワール」を見るチャンスはないだろうな。
そういうつもりで目に焼き付けてきた。

今年2010年は美術ファンにとって至福の年になったと、新聞に出ていた。
まさしくその通りで
ゴッホ、マネ、モネ、ルノワール、シャガール、印象派(オルセー美術館展)、レンピッカ、
そしてドガ、燦然と輝く、日本人にとくに人気の巨匠ら、オンパレードだった。
それもそれぞれ画家の代表作がずらり並ぶ質の高い展覧会が続いた。
ところで日本に追いつけ、追い越したお隣のお金持ち、中国と韓国では
こういう巨匠や有名美術館の展覧会事情はどうなのだろう?
中国なんかに高額の貸出料金を積んで展覧会が優先的につぎつぎ開かれるようになったら
日本でこれほど質の高い展覧会をこの密度で見られる機会というのも
これからは減っていくことになるのだろうか。
また、日本人画家に限っても先日の麻生三郎、古賀春江、長谷川潾二郎(りんじろう)、
田中一村、鴨居玲など、めったに見られない画家の回顧展が多かった。
ところで巨匠、有名画家の作品は確かに見応えがあるが、それ以外、
つまり実力はあるがあまり有名でない、もっと言ってしまえば
無名画家の作品は、美術の世界でどういう意味をもっているのだろうか?
そういったことが以前、疑問だった。
・・・・
作品をどこで見られるかわからず、どんな作家がいるのかを俯瞰することも困難、
いったい無名画家の世界とはどんなニーズで成り立っているのだろう、
それが不思議でならなかった。
しかしその不明を一変させてくれたのが洲之内徹の「気まぐれ美術館」という本だった。
気まぐれ美術館
世の中には有名より無名の画家の方がはるかに多い。
しかし、だからといって無名画家の作品がすべて有名画家に及ばない、ということは全くない。
複雑に入り組んだ世の中(美術史)のひだひだの中には無名の画家が存在し、
そこには優れた作品が山のように隠れている、
そういう無名作品の荒野を、実例(作品例)をもって次々に開拓、発掘していく
スリルに富んだ本だった。
ただし、内容の半分以上は著者の日常雑記であり、
たとえば自分の生活は夜と昼が逆転しているので起きたのは夕方だった、とか、
それで夜中にたばこを買いに行ったのはいつものあの店である、とか、
絵とは何の関係もない話が延々続くので「頭に来たからもう絶対読まないぞ!」
と怒った読者もいたようだが、そういう人も翌月はまたつい読んでしまう、
不思議な魅力のあるコラムだった。
当時(1970年代後半)「芸術新潮」に長きにわたって連載され、
単行本にして6冊に及んだ人気のコラムは、1987年著者の死をもって終了した。
(私が読んだのは1年前からだから当時のことは資料から書いているので誤解なきよう)
連載時に知人の有名画家が「誰も知らない画家ばかり書かないで、俺たちのことも書け」
と言ったらしいが、誰もが知っている画家をほめた話と、
誰も知らない、あるいはあまり知られていない画家に光を当てたり、当て直したり、
掘り起こしたりするのとどちらが胸躍り、かつ意味があるか。。。

もうひとつ、洲之内さんの絵とのかかわり方で他と違うのは
本当に好きな画家や作品、気になる事柄があると、そのゆかりの地や描かれた場所を探しだし、
自分の足で丹念に歩く、まったく面影がなくなっていても、歩く。
そうすることによって画家や事件が自分の経験に入ってくる、
血肉になるということらしいのだ。
そのあたりが文章の魅力となり、説得力、そしてリアリティにいっそう力を与えている。
だから本当の読者、絵画好き、そして青山二郎や小林秀雄といった最も厳しい批評家にも愛された。
新潟の山の中に小屋を建ててそこで余生を送りたい、と書いたら、
匿名の読者から本当に山荘を贈られたりした、あり得ない話も実際にあった。

よく知られていることだからここにプロフィールみたいな事は詳しく触れないけれど、
全く知らない人のために少し書いておくと・・・
洲之内徹は本職のコラムニストでも批評家でもなかく、「ただの絵好きだ」と自らを語っていた。
元は作家だが、別のある作家から銀座の小さな画廊を任されて、
どういう経緯かその(芸術新潮連載の)コラムを書くことになった。
連載当時は非常に人気を呼んだらしい。
画商だから絵を扱う。
いい絵があれば当然客に売るわけだが、彼はすべての絵を売るわけではない。
自分がいい絵だと思えば売りたがらず、よく得意客ともめたらしい(あたりまえ!)。
そうして資金繰りに四苦八苦しながらも手元に残した作品の中には中村彝の自画像や関根正二、
ふたりの長谷川、利行と潾二郎らの絵などもあったが、多くは無名画家の優れた作品だった。
それらは大森の自宅木造アパートの四畳半に無造作に積まれていたらしく、
今となっては冷や汗の出そうな、そして夢のような話である。
中村彝や利行の作品が(おそらくは車を買うくらいの価格で)買えたことがまず驚きであり、
それをカギもしっかりかからないアパートに所持していたというのはちょっと怖いくらいだ。
洲之内さんの好きだった画家には共通点が多く、
それは絵を描くために自分のすべてを注ぎ込み、その結果食べて行くにも事欠いているような
不器用な生き方をしている、あるいはしていた画家達だ。
物故画家の掘り起こしも多かったが、存命の画家、新人にも目は及び、
自分の目だけを基準にしていたのでジャンルも幅広かった。
白州正子はその「目」の怖さを交友録「遊鬼」に青山二郎らと並べて書き残している。

「目」といえば、洲之内徹があるとき、古道具屋で入手した絵が関根正二と思えて仕方がない。
その作品の真贋をその専門家に見せると「贋」と判断されたが
なんとしても納得がいかず、生前親交のあった伊東深水に最終判断を求めて
鎌倉の深水宅へ出かけていくくだりはかなりスリリングだ。
このコラムを通じて世に出て行った画家も多く、著者の死に際して悲嘆に暮れた画家、
(目標の)喪失感に襲われた画家も多かったという。

洲之内さんによって掘り出された画家のひとりに木下晋がいる。
彼による、洲之内徹がひとりの画家の作品を見るときの真摯さを活写した記述が残っている。
洲之内徹の風景」(春秋社)に収められているが、
その文章が洲之内徹の視線の厳しさと愛情を表してあまりある。
その雰囲気をよく伝えるブログがあるので一読を。
TVの鑑定団に出てくるような、一目見てばっさり判断する「目利き」
というような評価の仕方をせず、描いた画家のよいところの見落としがないか、
という点に全力を傾けて凝視していたのではないか。
しかしいま、こういうひとは日本にいるのだろうか。
なんにでも理解を示して味方ヅラする書き手はどの世界にも多いが。。。
私はこれら洲之内徹の本によって絵画の見方や画家の生きる意味、覚悟みたいな事を
学ばされた気がする。
ちなみに洲之内さんが客と喧嘩さえして遺した作品たちは今、
宮城県美術館に常設コレクションとして展示され、幸いにも散逸を免れて無事収蔵されている。


このめっぽう面白いコラム6冊は残念なことにすべて絶版になっていて、
古書で入手するしかない。(※6冊セット(新潮社、21,000円)のみ現在も新刊で販売)
値段もあまり下がらず、はじめの3冊だけ文庫化されたが、
こちらも(文庫の古書なのに)値段は単行本とあまり変わらない(古本価格\1,500程度)。
とくに面白いのはやはり文庫化されたものも含む前~中期の四冊
「帰りたい風景」「気まぐれ美術館」「絵の中の散歩」「セザンヌの塗り残し」(新潮社)。
いまだに人気は根強いものがある。(古本価格\1,500~3,000程度、本により価格差有り)
他にそれらエッセンスをまとめた
「洲之内徹 絵のある一生」(とんぼの本/新潮社)も面白いし新刊で入手可、
没後に回顧展のような形で行われた「気まぐれ美術館」というコレクション展の図録も
上記の本を読む時に図版未収録の作品を見るのに参考になる(古本価格\3,000程度)。
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Tag:ドガ展 洲之内徹 気まぐれ美術館

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