利行碑拾遺

 30, 2013 18:29
長谷川利行の利行碑が上野不忍池弁天堂の前にあることは何度も書いたけれど
なぜここに碑があるのか、誰が立てたのか、
最近読んだ、立てた本人の文章によってやっと知ることができた。

上野界隈ほか

生前利行の作品を扱った二人の画商といえば天城俊彦(高崎正男)と木村東介、
利行碑を建てたのはその木村東介氏(1901-1992)で、湯島羽黒洞の主人だった人物だ。
(経緯が書かれた本はすでに絶版になっているが古書での入手は比較的容易)
・・・・

利行碑建立の悲願は木村氏が思い立ってから20年の時を経て1969年に成就となった。
木村氏が上野に碑を建てよう考えたのは、
生前美術界からは黙殺された画家を没後くらいは美術館が建ち並ぶ
芸術の気のある場所に置いてやろうと考えたからだった。
ところが上野公園一帯は都の管理下にあり、
利行没して30年近くを経ていても当時の評価ではいまだ「乞食絵描き」の域を出ず、
地所を借りることなどまず無理な話だった。
行き詰まって上野観光連盟会長の田中幸太郎氏に相談したところ、
不忍弁天の地所なら貸してくれるだろう、とのこと、
喜んで訪ねてみると、僧正から「坪百万円なら」と言われてしまう。
昭和42、3年当時の百万円は今の一千万円よりは高いだろう。
弁天堂は寛永寺の一角を占めるお寺なのであり、
利行の碑は地所代としてではなく、「永代供養料」という名目になるという。
しかしこの付近には当時からフグ碑、眼鏡碑、スッポン碑、包丁碑など
キテレツな名称、デザインの記念碑、供養碑がずらり建ち並んでいて
これらの地代の名目と寺にとっての意味は一体何だったのかと思ってしまう。

場所が決まったところで美術雑誌上で碑のデザインを公募、
全国から4〜50ほど集まった中から自然石を使った案を採用した。
しかしその自然石が思いの外ふさわしいものが見つからない。
行き詰まっていたところ、たまたま立ち寄った蔵王山上の蔵王ガーデンにて
「これは!」と思う自然石に遭遇した。
しかしすでに持ち主の決まっていたその石を求めて木村氏は、
その石の施工を任されていた、当時造園王といわれた岩城造園主と
石の持ち主の山形新聞社長とを膝つき談判して説得、
やっと蔵王山上から上野不忍池へ碑の石がやってくることになった。

この石、ただ置いてあるのではなく、地中には6mの鉄杭が6本打ち込まれている。
その上にさらにコンクリートの土台が築かれてから土がかけられている。
今はどうかわからないが、当時隣のコンクリート造りの弁天堂を見てもヒビが入っており、
置くだけとはいえしっかりした基礎工事は必須だったのである。
碑の文字は熊谷守一揮毫によるのは有名だが、
その仲立ちは利行の二歳年下で同じ京都出身の梅原龍三郎画伯が取り持ったということだ。
たった5字の文字ではあるけれども真夏の炎天下、二十日間をかけて石工が刻んだ。
(自然石の生のままの面に苦心して刻んだ熊谷画伯の文字になんと誤字があり、
 後日再度書き直してもらったうえで刻みなおしたことを最近どこかで読んだが
 引用先をちょっと忘れてしまった)

碑建立の苦労はここで終わらず、実はもう一つの歌碑のことでさらに一波乱起こる。
碑の右隣には利行を歌人としてもたたえるため、
 己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光りてすべる
 人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず
の二首を刻んだ歌碑(有島生馬揮毫)を建てることにしていたが
弁天堂側はそのことは聞いていないと言う。
もう一つの石碑が置かれるとここで木村氏は思いもかけないことを要求される。
「ではもう一坪分の地代(百万円)を申し受けたい」
ホトケは意外に世知辛いモノである。
あくまで文化的な目的で、しかも私費で建てようとする木村氏は再度困り、
またもや上の観光連盟の田中氏に相談、
かなり負けてもらってなんとか除幕式のゴールまでこぎ着けたということだ。
今、碑のそばには笹藪と曲がりくねった松の木が見える。
これも木村氏が碑の風情を考えてあしらったのだが、
それでも百万円の地代を払いながらたこ焼き屋の露天の裏側になり、
立ち小便とアベックの集まる場所に建てさせられてしまったことを文中で嘆いている。
利行碑

以上の碑建立までの経緯は、本に収められているもののあまり広く紹介されていない。
上の文章も文体から想像するに、除幕式の原稿ではなかったかと思う。
木村氏は碑の建立に尽力というより、私財を投じたばかりでなく
利行の没後、戦時中はまだ利行作品の評価がまったく定まってもいなかった頃に
自ら所有する利行作品を馬車に乗せて
自分や家族より優先して戦火から疎開させるため奔走した人だ。
にもかかわらず利行碑建立の経緯に誰も触れないのは、
(画を売る)画商が建てたこと、私費で行われたことと無関係ではないような気がする。
ここで木村東介氏の人となりには触れないけれど単なる画商ではなく、
手短にはまとめきれない、相当に破格な人物であったことが著書から伺い知れる。
木村氏の随筆は「界隈もの」として当初三部作が予定されていたが
好評のためシリーズを増やし、その後著者が亡くなるまで書き続けられた。
装幀は利行や風間完、齋藤真一など、氏が愛してやまなかった絵描きの装画がすばらしく、
こういう渋い装幀は最近なかなか見なくなった。

不忍界隈
弁天堂の向こうに塔が見えたりして、今の池畔風景とは少し違っているようだ。
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COMMENT 2

Wed
2013.07.31
00:59

タブロウ #3h4yWL0g

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No title

しょうちゃん、こんばんは。

歌の方は長かった文章を短くしたら切ってしまっていました。
後日再度戻します。

東京は関西に比べると風景が大きくて緑が多いのが特徴かと思います。
さらに背景にすぐ都市風景が迫っていることもあるかもしれませんね。
でも「東京っぽい」というのはこちらに長くいると気がつかないことです。

しょうちゃん兄の歌、ここの蓮池を知っていると大きく感じる歌です。
吹き渡る風とともに、季節があっというまに移ってゆく気配もあります。
ありがとうございました。

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Tue
2013.07.30
18:49

しょうちゃん #bGf9qjkw

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No title

タブロウさん こんばんわ

「蓮池 夕暮れ」を拝見していましたら 東京の風景らしいなと 感じましたが理由は分かりません

利行さんの2首目良いですね 開きなおって 日一日満足されていた画伯の心持ちが良く伝わって来ます それにしても歌碑にもう百万と とぼけた話で面白いです 言う方も聞く方もおおらかで

木村東介さん様な名伯楽のことまたご紹介下さい 彼も文章で利行さんを育てたのですから 古本屋巡りの楽しみが増えます

 歌の方もあまり上手く詠めませんが
 朝露にきのうの涙残しつつ不忍の蓮過ぐる夏の日々  雁行

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