日々すれ違う風景

 26, 2013 15:07
老人

毎朝仕事場まで約一時間の道のりを歩いて通っている。
仕事場を目指してただ黙々と歩くわけだけれど、
毎朝歩いていると同じ人、同じ車とすれ違うことがある。
とくに気になっていたのは一人の老人である。
嵐寛寿郎と東山魁夷を足したような顔は最初に会ったときから懐かしさを感じていた。
けっこうな高齢で、おそらく健康のため毎日歩いているのだろう。
かなり真剣度が高い散歩の様子はこんな感じだった。

前方をきっと見据え、脇目も振らずにまっすぐこちらに歩いてくるのが遠くから見える。
私の顔を見ているのかと思っていると、まったく視野に存在しないかのようにすれ違い、
ペースを変えることなく歩き去ってゆく。
毎日同じ時間、同じコースを一体どこを目指して一心に歩いていたのだろうか。
そして住宅地とはいえ車の往来はあるのに歯牙にもかけず、
道のど真ん中を杖をつきつきマイペースで歩くのだった。
道路中央は路肩よりつまずく可能性が低いからだろう、東山画伯は用心深い。
後ろから車が来たことがあったが、車の運転手もたまたま老人同士、
クラクションを鳴らすこともなく老人の歩行に合わせてハンドルを握り
追い越すこともなく後ろからそろそろと付いていく。
運転手はニコニコとしている。
自分以上に老いた老人にこの朝出会い、
ふだんいたわれる存在からいたわる自分へと立場は突然逆転し、
相対的に若さを感じた喜びに浸っているようにも見えた。
その間、車を引き連れて散歩の歩を進めるひとりの老人と、
けげんな表情をしながら追い越すおばさんの自転車との対比の図は
ちょっとした見ものだった。
老人が着ている服は毎日違っていて、同じのを見たことがなかった。
なかなかおしゃれで老人然としたところがあまり感じられず、
それはおそらく、同居する家族が老人のために用意したものだろう。
家庭内で大切にされていることが想像されるのだった。
(上の画は老人を少し大きく描いてしまったが、日々のいでたちはこんな感じだ)
その老人をこの春から見なくなった。
週に何度かすれ違っていても黙礼さえ交わすこともなく、
我々はコミュニケーションをまったく持たずに何年もすれ違っていた。
ひょっとしたら老人はすれ違う私のことなどまったく覚えていなかったかもしれない。
きっとそうだろう。
にもかかわらず、姿を見なくなると小さな喪失感を覚える。
今となっては住んでいるところも名前も知らない老人のその後を知る術はない。
年齢が年齢だけに心配になる。
私にとって近所の風景の一部であった老人が消えて
変わらないはずの風景がどこか変わってしまったような気になっている。
ところで、「私が見る目」があればまた「私を見る目」もありうる。
老人と同じく毎日同じ時間同じ道を歩く私を、
風景の一部と見ている目もまた、どこかに存在するかもしれない。
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COMMENT 2

Sat
2013.09.28
02:11

タブロウ #3h4yWL0g

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No title

こんばんは。
コメントありがとうございます。
独立して最初の頃は自宅で仕事をしていたのですが
歩く量が減って、知らないうちに足腰がひどく弱っていた経験があり
以来できるだけ歩くようにしています。
これでも一般的なサラリーマンの人よりはまだまだ少ない方です。
若い時にはなかった鈍り方には注意が必要で、
子どもの運動会にお父さんが参加してアキレス腱を切る人がいるのも
鈍っていることに気がつかないからですね。

アドバイスもありがとうございます。
路地奥の明るくなった場所の空間をもっと出せたら、
と思って手を入れてみましたが
自分が思ったほどの効果が出せなかったようです。
うまくいくかどうかわかりませんが、
こういうフラットな表現にもう少しトライしてみるつもりです。

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Fri
2013.09.27
20:48

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