本の処分

 30, 2013 18:39
本の処分

ここのところ今まで探していた本と次々に巡り会ったこともあって
2日に一冊くらいのペースで本が増えている。
文庫が多いとはいえ狭い部屋の中で積み上げた本は柱となって立ち上り、
掃除のたびに傾き、倒れる(そもそも本棚がない)。
さすがにこれはまずいと思って手提げ袋一杯くらいの文庫をまず処分することにした。
まず仕事場へと持っていき、暮れにまとめて古本屋へ持っていく。
ところで、買った本も古書だからここでふたたび本が循環することになる。
リサイクルがなんでも良いことのように言われるけれど、
一冊の本が文庫になってさえ何度も循環しているようでは
著者や出版社はたまったものではないだろう。
絶版や稀覯本は残すべきだが、今も苦労なく手に入る文庫やよく売れた本なんかは
売っても一冊たかだか10円ほどである。
全国チェーンの古本スーパーが出来てからそうなった。
活字離れとか、本や雑誌が売れなくなったと言われて久しいが
その小さい読者世界の中で何度も回し読みしている図を思えば
読者が書き手を干上がらせているというようなことが起こっている。
これからどんどん電子化されれば書籍は経年劣化もせずコミュニティを横にめぐり、
子は親から縦に受け継ぎ、際限のない回覧が繰り返されるのではないだろうか。

さて、処分しようと思っていた本をちょっと開いて拾い読みしてみる。
思いのほか面白くて次々本を手に取る。
どの本を開いてもそうだ。
たとえば戸板康二のある随筆にこんなのがあった。

旅先のパリで蝶ネクタイが必要になって、店で「蝶のようなネクタイ」を求めるが
店主は首をかしげるだけで理解してもらえない。
仕方なく画を描いて見せて「ああ、小さなネクタイですね」と、やっとわかった。
あとで友人に話したら、
店主はきっと君のことを詩人だと思ったろう、と言った。


山口瞳が池波正太郎と同じく日曜画家だったのは有名だが、
その日々をユーモラスに綴った「素朴な画家の一日」という随筆がある。
私自身も日曜画家ならぬ深夜画家であるので、膝を打って読むことしばしばの一冊。
(ただし、「素朴な画家の一日」というのはこの随筆集中の一篇のタイトルであって
 全てが日曜画家に絡めての話ではないので、念のため。)
ある日神保町の老舗画材屋へ出かけた著者は画材を買おうとして、
店員はひょっとしたら苦学して絵の具も買えない人なんじゃないだろうか、
高い画材を欲しがる自分は成金趣味に見えないか、
それを隣で見ている老人が東山魁夷画伯だった、ということもあり得る、
というような考えが次々に頭に浮かんできて緊張する。
そう思いながらも(以前から欲しかった)店で一番高いパステルを求めると、
偶然そこに串田孫一氏が居合わせ、店員との拙いやりとりの一部始終を見られてしまう。。

3日間のスケッチ旅行で日焼けをして戻った著者は、帰宅後床屋へ出かけた。
ちなみに著者はいつも6ミリに切りそろえる短髪スタイルである。
行きつけの床屋の職人はその日に限って1ミリ長く髪を切ったことに著者は気づく。
日に焼けた首と髪の白いところの境目が目立たぬようにとの職人の心遣いからだった。
著者はさらりと書いているが、「行きつけ」の店や医者を持つことの意味に気づかされる。
肝心の画の方は、目に見える限りは克明に描き込む著者の画は友人から褒められつつも、
一度(精神科の)病院へ行って診てもらうことを勧められてしまう、というお話。


これらなんとも印象的な随筆の数々。
財布の中身寂しいなか、吟味して購入した本の数々、面白くないはずがないのだ。
止まらなくなりそうなので本を閉じる。
一冊の本を読み終わらないうちに新しい本を手に入れて並行して読み進めるうち、
はじめに読んでいた本のことを忘れてしまうのがいつものパターンだ。
途中で放り出した本の中身は時間の経過とともに
面白かったのかどうかさえ、すっかり忘れてしまっている。
本好きでない奥さんというのはこれがまったく理解できないという。
まだ読み終わっていないのになぜ新しい本を買うのかと。
買っておかないと後日なかなか見つからない、
気になったことを忘れてしまうから、という説明ではまったく説得力に欠けるらしい。
さらに読んだ本は捨てるか売るかすればいいのになぜ本棚に並べておくのかと。
断捨離とは主に女性に支持されているはず、とひそかに思っている。
つらつら思いながら気がつくとまた本を、手提げの袋から本棚へ戻している。
スポンサーサイト

COMMENT 0

WHAT'S NEW?