寛容なき世界

 06, 2014 01:25
ホロコーストの一方的な被害者だったユダヤ人と
ガザで虐殺を繰り返すユダヤ人は、本当に同じ民族なのだろうか。
イスラエル死者64人に対してのガザ側1865人という数字は、
はたして「暴力の応酬」と言えるのだろうか。
「インティファーダ」とはパレスチナにおける抵抗運動、レジスタンスとでも言ったらいいのか、
ガザでの主たるインティファーダは「投石」である。
イスラエルからの最新の火器は海外からの取材陣を一人も犠牲にしていない。
そのせいか、報道の論調は淡々としている。
国連管理の避難所となっている学校へさえ繰り返されるピンポイント爆撃。
殺戮されたガザ市民のうち、7割を数える女性と子供は意図した標的と考えるのが自然だろう。
散乱する子供の死体は世界中の誰の目にも許されることのない罪と写っていると信じたい。
しかし今なお、同胞である反対側の自治区やアラブ諸国から
大きな非難の声が聞こえてこないのはどうしてなのだろう。
この悲劇を世界中に映像・画像とともに配信されてなお、
殺戮側を支援し続けるアメリカもまた狂っているとしかいいようがない。


8月6日を前に、原爆の悲劇を取り上げる番組が多くなっている。
昨年、原爆の投下を軸にして戦前戦後のアメリカがたどった負の歴史を問い直した、
オリバー・ストーン監督の「もうひとつのアメリカ史」というドキュメンタリーが制作された。
番組はアメリカだけでなく、日本人にとっても大変見応えのある番組だった。
同時に書籍化もされている。
その監督が昨年来日したときの密着取材番組をこの週末に見た。(再放送だったかもしれない)

一度見たきりなので細部に記憶違いがあるかもしれないが、監督は
アメリカは原爆の投下を境に、他者の苦しみを受け止める力を失ってしまったと嘆いた。
他者のいたみを想像し、寛容する心を失ったということだろう。
民族とその文化の多様性への不寛容は戦争を招く。
また、国が戦争の準備をするときはわかりやすい敵を作りあげる、とも言う。
似たようなことをここでも書いたことがある気がする。
アメリカを非難しながら、私には監督が日本にも警鐘を鳴らしているように聞こえる。
そしてドキュメンタリーを共に制作したピーター・カズニック氏と共に、
「アメリカ人による負の歴史を直視するきっかけは自分たちが作った、
 さて、日本人は・・?」というニュアンスの内容を語りかける。
この問いに私は悲観的だ。

原爆資料館を訪れ、被爆者女性の話を聞く監督。
女性は高齢ながら流ちょうな英語で、監督や見学に来日した海外の学生に直接語りかける。
「被曝した人はみな(はれ上がって)同じ顔になっていました。
 家族が声を聞いてはじめて我が子、お母さんだとわかったんです」
という老いた女性の言葉を聞き、見ている画面がにじんだ。
8月6日のこのうだる暑い日に目の前に立つ、やけどではれあがった子どもの顔を思い浮かべ、
その口から「おとうさん・・」「おかあさん・・」と言う我が子の声を想像する。
正気でいられるだろうか。
ガザにおいても何が変わるのか。
目を覆い、頭の中がパニックになりそうになるのは、
自分の家族、子供がそこに置き換わってしまうからである。

監督は放送一年後の今、
ガザ殺戮を支援する米国を見て、いったい何を思っているだろうか。
メッセージを聞いてなお、嘆きつつもまた惰眠をむさぼるしかない自分もまた許しがたい。
dome
(セガレが先日修学旅行で撮ってきた写真から)
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COMMENT 1

Thu
2014.08.07
01:26

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