
また時間を少し戻して、シベリア鉄道の中。
ソ連国内の外国人旅行者は、基本的に一つのグループにまとめられ、全員同じ列車だ。
管理がしやすいからだろう。
ただ、私だけが一両置いて、ロシア人専用の車両にベッドを割り当てられた。
横浜から行動を共にしてきた人たちの国籍はさまざまだった。
オーストラリア、カナダ、ドイツ、アメリカ、スイス、
そして一番多いのはもちろん我々日本人だ。
欧米人は白人ばかりで、誰もが知っているナショナルブランドの企業か、大学教授など、
エリートといわれる人たちだった。
中間地点のイルクーツクは世界で最も深い湖であるバイカル湖のある観光地で、
ここで下車せずにモスクワへ直行するのは私ひとりだった。
しかし、ロシア人の中にひとりでいることになって、ここからが本当の旅が始まった。
・・・・
昼間、ロシア人の子ども達は、通路で遊んでいる。
一週間もここで過ごすのだ。誰も文句は言わない。
当時(1991年)のソ連では、大人も子どもも電池電気を使う遊びなど誰もしていなかった。
今だったら皆、うつむいてスマホを相手に過ごすのだろう。
その頃はケータイさえもなく、大人はただ外の景色をひとりで見つめ、
子ども達は集まって、手と口を動かして常に何かの遊びをしていた。
私は子ども達の中にそろりと入っていき、
彼らの顔を描き、折り紙を折り、簡単な手品を見せた。
最も受けたのは手品だ。
向こうで様子を見ていた大きなお母さんが男の子を呼び、何か言って向こうへ消えた。
怒られるのか、と思っていたら、彼ら一家のコンパートメントに招待された。
おそるおそる入ってゆくと、まずはロシア語で自己紹介を、
と思ったら、ロシア語会話のパンフレットを採り上げて下へ置き、
まずはグラスを持ちなさい、という。
「乾杯」
先ほど子ども達に見せた手品をやってみせると、またしても大変受けた。
今度はイクラも食べなさい、という。
すぐに酔っ払った私は、日本の歌を歌い、彼らはロシアの歌を歌ってくれた。
たしかトロイカだったか、ポリシカポーレだったと思う
酒(ウイスキー)もイクラも、当時の彼らにとっては大変貴重なものだったろう。
お父さんのウイスキーのビンには、
実直な人らしく、今日飲んでよしとする所に線が引いてある。
いじらしいものだ。
イクラは・・食べていいのだろうか。
遠慮ということではなく、
常温、それも夏にビンに入れて持ち歩いて腐らないのだろうか、という疑問である。
彼らはいたって平然と「大丈夫だ」という。
ライ麦パンにのせて日々食事にしている。
私の同室の親子は彼らほど生活は楽ではないようで、
にんじん、タマネギ、そしてニンニクをナイフで切り、
幼稚園児くらいの兄弟が、そのまま生でかじって食事にしていた。
皆、一週間の食料は持ち込んでいて、食堂車を使うのは我々外国人だけだった。
それも、のんびりしていると、あっという間に売り切れになって、
そうするとお茶しか飲めない。
食堂車にある肉や野菜は、途中駅でブローカーに売りさばかれていたのだ。
ソ連末期のサバイバルな時代のことである。
昼間、ロシア人の子ども達は、通路で遊んでいる。
一週間もここで過ごすのだ。誰も文句は言わない。
当時(1991年)のソ連では、大人も子どもも電池電気を使う遊びなど誰もしていなかった。
今だったら皆、うつむいてスマホを相手に過ごすのだろう。
その頃はケータイさえもなく、大人はただ外の景色をひとりで見つめ、
子ども達は集まって、手と口を動かして常に何かの遊びをしていた。
私は子ども達の中にそろりと入っていき、
彼らの顔を描き、折り紙を折り、簡単な手品を見せた。
最も受けたのは手品だ。
向こうで様子を見ていた大きなお母さんが男の子を呼び、何か言って向こうへ消えた。
怒られるのか、と思っていたら、彼ら一家のコンパートメントに招待された。
おそるおそる入ってゆくと、まずはロシア語で自己紹介を、
と思ったら、ロシア語会話のパンフレットを採り上げて下へ置き、
まずはグラスを持ちなさい、という。
「乾杯」
先ほど子ども達に見せた手品をやってみせると、またしても大変受けた。
今度はイクラも食べなさい、という。
すぐに酔っ払った私は、日本の歌を歌い、彼らはロシアの歌を歌ってくれた。
たしかトロイカだったか、ポリシカポーレだったと思う
酒(ウイスキー)もイクラも、当時の彼らにとっては大変貴重なものだったろう。
お父さんのウイスキーのビンには、
実直な人らしく、今日飲んでよしとする所に線が引いてある。
いじらしいものだ。
イクラは・・食べていいのだろうか。
遠慮ということではなく、
常温、それも夏にビンに入れて持ち歩いて腐らないのだろうか、という疑問である。
彼らはいたって平然と「大丈夫だ」という。
ライ麦パンにのせて日々食事にしている。
私の同室の親子は彼らほど生活は楽ではないようで、
にんじん、タマネギ、そしてニンニクをナイフで切り、
幼稚園児くらいの兄弟が、そのまま生でかじって食事にしていた。
皆、一週間の食料は持ち込んでいて、食堂車を使うのは我々外国人だけだった。
それも、のんびりしていると、あっという間に売り切れになって、
そうするとお茶しか飲めない。
食堂車にある肉や野菜は、途中駅でブローカーに売りさばかれていたのだ。
ソ連末期のサバイバルな時代のことである。
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