長旅の携行食 【旅と絵 その6】

 18, 2015 01:54
イクラとウイスキー(オイルパステル)
また時間を少し戻して、シベリア鉄道の中。
ソ連国内の外国人旅行者は、基本的に一つのグループにまとめられ、全員同じ列車だ。
管理がしやすいからだろう。
ただ、私だけが一両置いて、ロシア人専用の車両にベッドを割り当てられた。
横浜から行動を共にしてきた人たちの国籍はさまざまだった。
オーストラリア、カナダ、ドイツ、アメリカ、スイス、
そして一番多いのはもちろん我々日本人だ。
欧米人は白人ばかりで、誰もが知っているナショナルブランドの企業か、大学教授など、
エリートといわれる人たちだった。

中間地点のイルクーツクは世界で最も深い湖であるバイカル湖のある観光地で、
ここで下車せずにモスクワへ直行するのは私ひとりだった。
しかし、ロシア人の中にひとりでいることになって、ここからが本当の旅が始まった。
・・・・

昼間、ロシア人の子ども達は、通路で遊んでいる。
一週間もここで過ごすのだ。誰も文句は言わない。
当時(1991年)のソ連では、大人も子どもも電池電気を使う遊びなど誰もしていなかった。
今だったら皆、うつむいてスマホを相手に過ごすのだろう。
その頃はケータイさえもなく、大人はただ外の景色をひとりで見つめ、
子ども達は集まって、手と口を動かして常に何かの遊びをしていた。
私は子ども達の中にそろりと入っていき、
彼らの顔を描き、折り紙を折り、簡単な手品を見せた。
最も受けたのは手品だ。
向こうで様子を見ていた大きなお母さんが男の子を呼び、何か言って向こうへ消えた。
怒られるのか、と思っていたら、彼ら一家のコンパートメントに招待された。
おそるおそる入ってゆくと、まずはロシア語で自己紹介を、
と思ったら、ロシア語会話のパンフレットを採り上げて下へ置き、
まずはグラスを持ちなさい、という。
「乾杯」
先ほど子ども達に見せた手品をやってみせると、またしても大変受けた。
今度はイクラも食べなさい、という。
すぐに酔っ払った私は、日本の歌を歌い、彼らはロシアの歌を歌ってくれた。
たしかトロイカだったか、ポリシカポーレだったと思う
酒(ウイスキー)もイクラも、当時の彼らにとっては大変貴重なものだったろう。
お父さんのウイスキーのビンには、
実直な人らしく、今日飲んでよしとする所に線が引いてある。
いじらしいものだ。
イクラは・・食べていいのだろうか。
遠慮ということではなく、
常温、それも夏にビンに入れて持ち歩いて腐らないのだろうか、という疑問である。
彼らはいたって平然と「大丈夫だ」という。
ライ麦パンにのせて日々食事にしている。
私の同室の親子は彼らほど生活は楽ではないようで、
にんじん、タマネギ、そしてニンニクをナイフで切り、
幼稚園児くらいの兄弟が、そのまま生でかじって食事にしていた。
皆、一週間の食料は持ち込んでいて、食堂車を使うのは我々外国人だけだった。
それも、のんびりしていると、あっという間に売り切れになって、
そうするとお茶しか飲めない。
食堂車にある肉や野菜は、途中駅でブローカーに売りさばかれていたのだ。
ソ連末期のサバイバルな時代のことである。
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