司馬遼太郎が語る八木一夫(日曜美術館アーカイブ)

 28, 2015 01:06
私と八木一夫-1
今年が戦後70年、そしてNHK日曜美術館は今年40周年だそうだ。
私もかれこれ35年近くは楽しませてもらっていることになる。
(こうなると、番組は私より長く生きるんじゃないかという気がしてくる)
その記念アーカイブとして放送された、
「私と八木一夫」(1981年)はたいへん面白かった。
(番組のテーマ音楽も懐かしすぎ)
番組中、若いときからの交流と、愛してやまないその人柄と作品、
人間としての尊敬を語る「私」とは、今は亡き作家の司馬遼太郎だ。
作家になる前の新聞記者時代からのつき合いというから長い。
番組とは関係ないけれど、久々に大阪らしい大阪弁(司馬)、
京都らしい京都弁(八木)を聞いて、胸がなにやらほっこりとした。
つまりは懐かしかったのだろう。
そして、司馬、八木両氏の創作に対する言葉が誠実さに満ちており、
聞いていて安心感に包まれる。
(この「誠実な言葉」というのも、近頃は耳にする機会がめっきり減った)

八木一夫の名前とその代表作「ザムザ氏の散歩」は知ってはいても、
今まで自分にはどうも響いてこなかった。
私自身が未熟だったということもある。
今回TVを通してではあるけれども、司馬遼太郎の前に置かれた作品を目にして、
ほーっと、ため息が出た。
はじめて自分の中に入ってきたのだ。
番組で司馬氏は作品を口で表現するのももどかしそうに、
「このねぇ、悪意の塊のような作品が…」と口にして、
あわててフォローしていたけれども、そうなのだ。
「悪意のかたまり」がやせ細って歩き出したような作品なのだ。
そしてその「悪意」には、いささか愛嬌があるように思われる。

私と八木一夫-2

手元にある日曜美術館30周年時の図録にザムザ氏の作品写真が入っていた。
しかしこれを見つめていても、いまひとつぴんとこないのはどうしてだろう。
番組中、司馬遼太郎の前に置かれた状態の作品がとてもいい。
まずオブジェとしてのその大きさがいいのだろう。
立体作品というのはどれでもそうだが、360°くるくる回して見て、
可能なら手で触ってみたいのである。
TVの映像にはいくらかカメラのアングルの変化があって、作品を立体的にイメージできる。
そうか、用を持っていなかったのか。
機能を持たない陶器をオブジェと名付けた。
20代の頃、海中生物のようなザムザ氏作品のあの穴には、花をさすのかと思っていた。
若い頃の写真で、作品のバリエーションだろうか、
火に入れる前の作品を板に乗せて京都五条坂を満面の笑顔で歩く八木一夫の
創作の喜びを体現したような写真が忘れられない。

司馬遼太郎は八木一夫を、陶芸の歴史の流れでは定義できない、
誰のまねもしていない、まったく独立した位置にあるものだと語っている。
だからすごいのだと。
そういう意味で突然変異のような作家が、日本には何人かいるように思える。
仏像の円空、浮世絵の写楽、洋画の長谷川利行がそうなんじゃないだろうかと、
番組を見ながら思い浮かべた。

※番組は、ありがたいことにこちらのサイトで〝とりあえず〟現在も観ることができる。
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