「最後のニュース」

 19, 2015 03:38
新潟から帰りの車の中、陽水の「最後のニュース」が流れてきた。
陽水の最も好きな曲の一つだけれども、人間の業を歌った底知れぬ悲しさがある。
そしていちばんの魅力は、歌詞の言葉が持つ普遍性だと思う。

この曲がニュース番組のエンディングで流れていた頃、世界では湾岸戦争が起こっていた。
あれから今に至るまで、海外ではずっと戦争が続いている気がする。
日本は「先の戦争」といえば太平洋戦争だけれど、他の国は違う。
特にアメリカでは、親子三代でそれぞれが異なる戦争に送り出されて戦死し、
孫だけがかろうじて帰還することができたような家族がある。
戦争というのはその始まりははっきりしていても、終わりは限りなくあいまいだ。
過去の戦争が新たな戦争に切り替わるのではなく、古いものの上に新たなものが乗っかる。
新しい戦争はそれ以前の戦争の記憶を抹消するものだ。
だから反省ということをしないまま、次の戦争が始まる。
新たな争いに投入される脅威が日々の生活から消えたことのない国。
国際貢献の名の下、夫や子の無事を絶えず祈らねばならない国。
日本はそういうところから、これまで遠い国だった。

先日、師のU氏を訪ねた時、氏はこう言った。
「俺たち(老人)はもうすぐ死ぬからいいさ。
 一生戦争をせずにすんで、本当に幸せだったよ。
 人を殺さず、殺されもしなかった。
 世界的に見れば、一億もいる国民全員がそうだったのは奇跡に近いんだよ。
  でもおまえらの子ども達はこれからたいへんだぞ。」

原発事故から今日まで、何度かデモに出かけた。
私のような人間にとって、大勢の中に入って同じ言葉を叫ぶようなことは
苦痛以外の何物でもない。
家族の命に関わることだから、それでも足を運んだ。
そういう人はきっと多かったはずだ。
しかし他の国とは違って、一つのデモに100万人が集まる国ではないのだ。
マスコミや文化人、そしてあの若者たちも、
声を上げるのが遅すぎた自覚はあるだろうか。
都知事選、せめて衆議院選の時に声を上げなければならなかったと、
今は思っているだろうか。
こうなることに警鐘を鳴らした声は少なくなかったことを、
今も覚えているだろうか。

今上げている声は明日につながるのだと信じたい。
声を上げるのは「おしゃれでかっこいい」からではなく、
もっと切実なことが動機なのだと、今はわかっていると信じたい。
でなければ声は力など持たないだろう。
今はただ、声を上げる術を持たない子どもたちの世代に、すまない思いで一杯だ。
「最後のニュース」はこういうときにひどくつらい曲だ。

国会前デモ
国会前 


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