J特急の行く先

 05, 2016 00:54
枝

毎日というほどではないにしてもよく見ている、
あるいはときどき見ているニュース番組の看板キャスター、コメンテーターが
この春に相次いで降板させされる。
NHKの国谷裕子さんなんて、IMFだったかFRBだったかの代表と番組中、
生でTVインタビューして英語で対等に渡り合うだけでなく、
鋭い突っ込みを入れていたのを覚えている。
あんなことができるキャスターは今、ほかにいないんじゃないだろうか。
皆、ストレートな物言いが共通しているけれど、
偶然というには皆キャリアが長く、人数も多い。
それも含めてのことだけれど、息苦しく、大に寛容、小に容赦ない今の社会は
いったいどこから来たんだろうか、と考える。
ネットの存在はもちろんだけれど、
どうも就職氷河期と格差社会の始まりがその端緒ではなかったのか、
そんな気がしていた。

先日、作家の中村文則さんが新聞に寄稿した文章
ネットに上がっていたのをたまたま読んだ。
こちらにも全文がアップされている。)
自身のリアルな体験と、
ごくふつうの想像力を巡らせて綴る文章のタッチはやさしいが、
彼らが置かれた当時の環境は痛ましく悲痛だ。
20世紀が終わろうとする頃、ブラック企業や格差社会、
レイシズムや右傾化の根っこがすでに芽を出していたことがよくわかる。
最近の新聞によれば、この世代は非正規、派遣労働のまま今に至っているという。

原発関連や、大きな政治関連ニュースが取り上げられるとき、
同じ新聞の一面と社会面に真逆の意見が掲載されていることが多い。
違和感のあるその紙面風景は、報道の中立性を示しているのだろうか。
中村文則さんはこの「メディアの両論併記」を、報道の役割の放棄だと指摘する。
批判と肯定を併記されることによって、怒りの濃度がうまく薄められてしまうのだ。
同時に「政府への批判は弱いが他国との対立だけは喜々としてあおる」メディアは
とても危険であると。
これは歴史の中でかつて見た姿でもある。

列車のレールはすでに昨年までに敷かれていて、
仮に首相が交代してさえも、その流れを変えるのはもう難しいだろう。
替わりの人間は亡霊のように繰り返し立ち現れてくるに違いない。
もし日本のどこかで他国と軍事衝突が起き、
直後に新しい形の警察国家的な枠組みが必要だと言われたとしたら、
多くの人はためらいつつも粛々と受け入れるんじゃないだろうか。
その時に自分も受け入れざるをえない哀れな姿を想像して、
おずおずとでも現在にダメ出しするしかない。

トイレのない家と揶揄される原発に相次いで火を入れ、
他人の貯金を勝手に引出して博打を打ち、
ブレーキのない特急列車の発車ベルを押している。
私もその列車に嫌々ながら乗せられ、降りることも止めることもできないでいる。
作家はその行く先を案じているが、
彼と同じ若い世代はその言葉をどう受け取るのだろう。
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