『チェルノブイリの祈り』

 09, 2016 22:10
チェルノブイリの祈り

日本ではノーベル賞の季節になると、
何年経っても毎回話題になるのは村上春樹の当落だけれど
昨年受賞したのは初のジャーナリストだった。
スベトラーナ・アレクシエービッチというベラルーシの作家で、
旧ソ連下で育った女性である。
旧ソ連下でアフガニスタン侵攻に従軍した人々や家族の証言を集め、
父の母国ベラルーシで起こったチェルノブイリ原子力発電所事故でも証言を集めたのは
「今集めねば」という内なる声に追い立てられてのことだったという。
本書執筆以前にもペンを折られ、カメラを破壊されたジャーナリストは大勢いたが
それでもやはり命をかけた取材と執筆であったはずで、
『チェルノブイリの祈り』は受賞にふさわしい労作だと思う。

筆者は聞き書きに徹している。
被災した人たちの声の一つ一つは、命の尊さを痛いほどに伝えている。
人間の尊厳があらわになった瞬間を全てのページに塗り込められた壁のような本だ。
日本はチェルノブイリ事故について、
あれは社会主義の国で起こったからあれほど悲惨な事故になったのだという見方が今も強い。
筆者が十数年前に来日した時、どんな地震にも大丈夫だと日本人に聞かされたが
その後、フクシマの事故は起こってしまっている。
たとえば一人の猟師がこう言っている。
「いいか、たくさんの住人が被災したのに、誰も責任をとっていないんだ。
 あの体制では、だれが悪かったのか決めるのは、とても難しいんだよ」
これは日本とは違う国のことだろうか。
日本では水没により電源が失われたことによる、
事故の最大の責任者は追求されることなく現世から既に退場し、
どういうわけか今は英雄のように扱われている。

「フクシマの祈り」もいずれ綴られるのだろうか。
田園や海辺で自然から直接の恵みを得て生きる、
穏やかで平和な暮らしは都会に暮らす現代人には、実感としての想像は難しい。
それを失った人々の素朴な声は悲しみに満ちているにもかかわらず、
ときに歌のようであり、詩のようであり、そして祈りのようでもある。
文化や近代化の歩みが日本よりはうんと遅い、ロシアや東欧の農村地帯には
事故が起こらなければ、今も100年前と同じ暮らしが営まれていたはずだった。
証言は個人の声を拾えば事件になるが、ある数を超えると歴史になる。
ストックホルムがこの作家の仕事を選んだことは幾重にも意味がある。

ところで、この本は受賞のすでに10年前に日本で翻訳出版されている。
たったひとりで運営する群像社という零細出版社で、受賞後は古書価格が高騰していた。
通常ならここでやっと商業ベースに乗せられるはずが
ノーベル賞受賞後契約は更新されず、増刷は認められなかった。
さぞ無念かと思いきや、その後のオーナーのコメントがふるっている。
「契約は切れてしまったので増刷はできなくなったけれど
 ほかの出版社からきっと出されるはずで、それを読んでいただければ、
 我が国で細々ながら最初に出版した自分としてはうれしい」

日本の原発再稼働について、司法の判断はわかれているという。
ウクライナでも依然、原発は重要な電源資源として稼働している。
あといくつ事故が起これば優先するものが変わるのか。
頭で呻吟するより、この本を読めば悩むこともなかろうにと思う。
本は現在、岩波書店の現代文庫で手軽に読むことができる。
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