藤本義一「ぶっちゃけトークの会」で語った今東光(その1)

 13, 2016 00:16
藤本義一_3

放送作家の永六輔さんが亡くなった。
作詞だけ見ても
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」
「こんにちは赤ちゃん」
「遠くへ行きたい」
「いい湯だな」「黒い花びら」「帰ろかな」
やはり天才だ。
東日本大震災のあとにCMとして流れた、
「見上げてごらん夜の星を」の歌が、当時胸に染み入ったことを思い出す。
それほど時を置かず、熊本県が被災地になるとは誰も思っていなかった。

たまたま、おなじ年代の西の放送作家、
藤本義一さんについて最近書きかけていた。
「藤本義一さんと今東光のことを、そのうちに書きます」、
前に書いていながらそのままになっていたことを
最近「あの話は?」とのコメントをいただいたので
今頃になって古いノートのページをめくったのだった。
大阪のトークショーで話された時の聞き書きであり、
今から30年前の話である。
作家の今東光や藤本義一ファン以外にはつまらない話かもしれないことを
先にお断りしておきます。(以前書いた藤本義一さんの追悼文はこちら
自画自賛になるけれど、これだけのことをメモもとらずに覚えて帰ってきたことは
若かったとはいえちょっと褒められそうだ。
3回に分けたけれど、それでも長くなりそうだ。

1980年代から20年以上の長きにわたって、大阪ミナミの料亭「暫(しばらく)」にて
関西放送作家の会メンバーが手弁当でやってきて、
「ぶっちゃけトークの会」というトークの会を、毎月一度開いていた。
今、その痕跡はネット上にもほとんど見当たらない。
関西の放送作家の遊び心と良心みたいなものを、せめてここに記録しておきたい。

以下、当時の日記からの書き起こし。



1985年10月26日、友人と映画を見たあと別れた私はひとり、
大阪のミナミは宗右衛門町にある料亭「暫(しばらく)」ののれんをくぐった。
(今調べたら、正確には南区畳屋町だったようだ。
 この後、数年と経たず、ビルに改築されてしまったらしい)
24歳の浪人生が料亭に縁のあるわけもなく、
その日は夜、そこの二階で関西の放送作家が集まって主宰する、
「ぶっちゃけトークの会」というトークの会を聞きに来たのだった。
入場料は1000円、入口で料金を支払うとともに、
その日やってくる作家に話してほしいお題のリクエストを、
小さなリクエスト用紙(といってもただのわら半紙を切ったもの)に
書いて渡すというシステムになっていた。
(前にも書いたけれど)この会は、藤本義一さんが映画界にいた若い日に、
黒澤明監督が映画界を目指す若者を集め、
監督の口から生の言葉を聴いた時の喜びが原点になっている。
まだ駆け出しの放送作家だった義一さんにとって雲の上の存在だった黒澤監督が
目の前で語ることをただのひと言も聞き逃すまいと、
それこそ全身耳になって聞き入ったその夢のような経験を、
自分が今ささやかながら後進の若い人たちにも提供したいとの思いではじめられたものだ。
ただ実際は、藤本義一さんや新野新さんといった
TVやラジオでおなじみの人気作家に会うためにやってきたのは妙齢の女性が多く、
作家志望の若者、とくに男性は少なかったようだ。

初めてその会にやってきた私は、
自分の書いたお題について、なんとか義一さんにしゃべってもらいたかった。
それで、出演する6人(そのほか、新野新、中田昌秀、杉本守など)のうち、
義一さんだけが交流を持っていると思われる、「今東光について」と書いたのだった。
時間になって会場に現れた6人の作家はそれぞれ何枚かのお題の書かれた紙を手にしていたが
義一さんの手には一枚だけが握られていた。
その紙は、私が書いたものであるに違いないと思っていた。

最初に登壇したのはたしか、中田昌秀さんだったと思うが、
当時テレビ制作で問題になっていた「やらせ」についての話で始まった。
今も昔も変わらないものだ。
TV番組はスポーツとニュース以外、やらせのまったくない番組は一切ない。
現在、原発事故の時にはそれさえ疑わしくなってしまった感はある。
ちなみに会場の料亭「暫」は、主宰作家のひとり、中田昌秀さんのご実家だったと思う。
中田昌秀さんは「てなもんや三度笠」や「ヤングおー!おー!」の制作に携わった方だ。
その後、さまざまなお題を持って登壇した作家は、
放送作家らしくそれらをとてもうまくつなぎ、
オチまで持って行く手際には感心した。
義一さんは最後に高座に現れたが、手にしていたお題ははたして私の書いたものだった。


えー、奈良市ツルマイ、タブロウ君の「今東光について」ですが・・・

僕が今先生に初めて会ったのが、昭和31年の大阪府立大学にいた頃ですが、
その時に八尾の天台院におられて、よくおじゃましていました。
それで就職の年になりまして、
「おい藤本、おまえは何になるんや」と言われて、
僕は「作家になります」と言ったんです。
「作家がどんなもんかおまえわかっとるのか。どうして就職しない」
「僕は作家になりたいから会社員にはなりません」
「社会へ行けばそこに居る人間が見れる。そこで社会の側面を観察せよ。
 世間を知らずして何が作家だ」
ところがそれでもがんばって、
その時卒論を書いていたんですが、その中で「定年退職」を扱っていて、
当時僕は、定年の意味がよくわからんかった。
「定年」というのは会社が決めたルールであるが、
「退職」というのは自分の意思で会社を辞めることである。
だから「定年退職」というのはおかしいと考えていました、そう言うと、
「面白いこと言うな」と言われ、ついに就職せずにいまして、そうすると
「おい、ギイチ、それなら世界を見てこい。
 それもオレの行っていないところへ行ってこい。
 まずアフリカへ行け。アフリカへ行って動物と人間との違いを見てこい。
 その次は南米ペルーだ。
 その次はスペイン、その次はーーー」
と言われて、あっけにとられて聞いていました。

以下続く。
スポンサーサイト

COMMENT 0

WHAT'S NEW?