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大阪に残っていた焼け跡

 17, 2018 01:20
寝屋川焼け跡
(オイルパステル)

戦争を知らない私が見た、忘れられない戦争の風景がある。
私が子どもの頃、といっても小学校の頃だから
昭和40年代後半の頃に私が見た、大阪の中心部に実際にあった風景である。
その頃、夏休みや冬休みには必ず、大阪の祖父母の家へ泊まりに行った。
近鉄奈良線から鶴橋で大阪環状線に乗り換え、
京橋でさらに京阪線に乗り換えて枚方まで行く。
途中、森ノ宮駅から京橋へ入って行くところ、
その頃はまだなかった大阪城公園駅を過ぎたあたり、
今の読売放送社屋の前あたりに突然、黒く焼け焦げた風景が広がっていた。
戦後20年を経てもなお、草も生えていなかった。
太平洋戦争時に被災した空襲の跡が
20年間も放置されていたのは、どうしてだったのだろう。
ちなみに前回の、野見山暁治さんらが戦没画学生の遺族を訪ねる旅をはじめたのは
それからさらに10年後のことだ。
ネットでは、大勢の犠牲者が出た京橋駅の空襲についての詳細な手記が出ている。
そこからほど近いここの土手も、同じ空襲で焼かれたものと思われる。

これはひょっとして幼い私の思い込みで、
実際は空襲ではなく、火事か何かの焼け跡だったのだろうか。
「ここはなに?」と聞いたとき、母は「空襲のあとやで」と私に言った。
だとすると、レンガや立木、地面にいたるまで焼き尽くされた黒焦げの土地が
この土手沿いに、焼けて手つかずのまま残されていたのはなぜだったのだろう。
通勤に環状線を使う人は、
まだ煙がくすぶっていそうなその風景を見て、どう思っていたのだろう。
毎日見ていればただの通り過ぎる風景になるのだろうか。

高度成長期からオイルショックの時代を経てなお放置された異様な風景は、
ネットのどこかに出ているんじゃないかと、ずいぶん探してみたものの、
とうとう見つけることができなかった。
焼け跡はある年に突然工事が始まり、たしかそこに日本生命ビルが建った。
それから何度か建て替えがあり、現在は読売放送社屋が建っている。
今、このあたりは「ビジネスパーク」と呼ばれているそうだ。
下のストリートビューは現在の風景だ。
私の記憶では、実際は上の画よりもあらゆるものがもっと黒く焦げていて、
黒い地面にパラパラと残っていたレンガの破片もわずかだった。
あそこを掘り返せば、今でも黒い地面と焼けたレンガが出てくるはずだ。
今となっては悲惨と言うよりも、私の中では夢のような風景になっている。

寝屋川縁
(googlemapより)
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