青木繁「海の幸」

 15, 2011 13:54
青木繁展

これまでずっと開店休業状態だった仕事が急に動き始めて
朝方までかかる日が続いていた。
そんな中、京橋のブリヂストン美術館の「青木繁展」へ出かけてきた。

28歳と8カ月で世を去るまで、日本美術史に大きな足跡を残した明治の画家は
その足跡の大きさにかかわらず作品数が少ないためか、
大きな回顧展は39年ぶり、まだ2度目ということだ。
私たちが小学生の頃は、その作品「海の幸」が
必ず教科書か図工室に掲示されていて、誰もが一度は目にしたものだ。
今小学生の教科書には巨匠の有名作品はゴッホでさえほとんど掲載されず
載っているのは同年代の子どもの作品ばかり、
いつからああなってしまったのだろうか。
青木繁の「海の幸」も今では中学の日本史の教科書に載る方が多いそうだ。

今回実物を初めて見る作品が多く、その多くは今見ても新鮮である。
・・・・

傲慢で美術学校ではわが物顔に振る舞った点ばかりをフォーカスされる青木だけれど
今回展示された手紙などを見ると(筆で書かれた文字は私にはとても読めない)
周囲への気遣いや礼を欠かぬよう気を配っていたこともよくわかる。
読書家で、とくに日本の歴史、神話世界への興味は深かったようだ。
その世界を視覚化するには相当の時代考証も必要だろう。

驚いたのは、最初に公募展に出して注目された作品「黄泉比良坂」だ。
いわれなければ油彩か、せいぜい水彩にしか見えないこの作品は、
なんと色鉛筆で描かれていた。
黄泉比良坂

発表当時、使用した画材の点でも話題になったかもしれない。
私も20歳頃12色セットの色鉛筆で静物や自画像を描いていて、
とくに暗い部分の明度を混色で落とすのに苦労した記憶がある。
青木の作品でも同じところで苦労した形跡があり、
暗くするために筆圧強く描いたところの紙が破れそうになっていた。


最もすばらしかったのはなんと言っても「海の幸」だ。

海の幸

これは恋人の福田たねや坂本繁二郎らと千葉の布良の海岸を訪れたときの産物で、
会場のキャプションにはなかったが、
はじめ坂本繁二郎が旅先の朝に海岸で目にした漁師たちの光景を
彼に話し聞かせたものが画題になっている。
青木はすぐには作品に取りかからず、坂本が作品にしようとしないのを見て
「オレが描いて良いか」と坂本に了承を得てから作品に取りかかったということである。

青木は実際には目にしなかった光景を想像した。
多くのモデルを使って写生し、自分のイメージとする「海の幸」を構築した。
最も驚くのは、一見未完成にも見えるその粗塗りの画面と
意外に小さなサイズだという点である。
私も複製画で見ていたときは、壁画のように大きなサイズを想像していた。
実際は横幅2mに及ばない作品である。
未完成にも見えるタッチという点においても当時、
フランスでも印象派が市民権を持ったばかりのころであり、
ピカソが青の時代にあった頃だ。
日本ではアカデミックな写実と印象派風の作品が大勢であり
これをもって「完成」として出品したとき、
審査員もどう受け取ってよいか困惑しただろう。
青木は当時22歳であったことも驚嘆に値するが、
手応えのある構図で描き進め、確かな技術も持ちながら、
下絵もはっきり見えるこの段階で筆を置いた事実と決心に、
なにより私は青木の天才を見る。
ここで(筆を)置いたことにより、
漁師たちが獲物を掲げて右から左へ移動する躍動感と
その現場を目にしたような臨場感の定着に成功している。
その色彩は、作品の初期段階を示すような大まかなものではなく
そこに最も必要な色が、必要なところに置かれている。

こういう下絵のようなスタイルのまま作品を世に問うたのは、
日本では青木繁が最初ではないだろうか。
しかもそれが想像以上の効果を生んでいる。
「薄塗り」の「粗描き」にもかかわらず、
全体としてみればフォルムは彫像のように強固な重量感を持ち、
日本のどの彫刻家が生んだ彫像より、この絵は彫刻的であるように思う。
当時見た人々の衝撃を想像するにあまりあり、
ここにこの作品の永遠の若さを感じる。

しかし、この自信作が期待したような評価が得られなかったことは
その後の画家が生きた時間の少なさを考えると致命的な影響を与えたかもしれない。
神話世界の重要な作品もあるが、青木のピークはこの「海の幸」だろう。
没後重要文化財に指定されるこの作品を、
貧困にあえぎながら青木は22歳で描いたが
以後の作品は次第に精彩を欠いていく。
たとえば絶筆にいたる、生涯を通じて多く描いた、海をモチーフにした作品群、
モネに酷似したタッチの印象派風の風景画は今見れば凡庸であり、
別室に展示されていた肖像は注文画だろうか、
無名の人々の肖像画に至ってはあきらかに対象に興味を失っており、
見ていて無惨ですらある。
もし「海の幸」と「わだつみのいろこの宮」がなかったなら、
はたして歴史に名を残しただろうか。

同期の級友に熊谷守一がいた。
傲慢といわれた青木が唯一認めていたのが熊谷で、
そばで青木の生活困窮ぶりを見ていた熊谷は、
後年彼のことを「青木はかわいそうだった」と繰り返し述べていた。
油彩以外の作品が多かったり、描いても小さなものが多かったのは
金銭的な理由もあったに違いない。
関根正二と同じく、となりで描いているヤツの絵を酷評して
落ち込んだそいつが描けなくなるとそいつのパレットやチューブから
自分のパレットに絵の具を搾り取ってきたエピソードが、
「傲慢」のレッテルを貼る原因になったかもしれない。

熊谷のように、自分が納得できるスタイルを持つまで数十年かかる画家もいれば
筆を持って数年でピークに達する画家もいる。
どちらも天才であれば、見る方はやはり夭折の天才の方にロマンチシズムを見る。
萬鉄五郎、青木繁も学校卒業時、あるいは直後の作品が
後に国の重要文化財に指定されている。
驚くべき早熟としかいいようがない。

余談だが、
私たちの世代より少し上の世代の方には懐かしい
クレージーキャッツの石橋エータローは、青木繁の孫に当たる。
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Tag:青木繁

COMMENT 4

Wed
2017.02.15
03:40

傲慢マッケンロー #-

URL

亡霊青木繁…

青木繁が 一瞬の 明治に 生きたのは… 同時期の 天才ピカソに 比べると…あまりの 運命に しょうがないか…とも 思う… 青木繁 ピカソ 技量としては 甲乙つけがたい… ピカソは 生涯 北斎や 日本を 目標に 置いたのを 思うと…青木繁は 天平 平安から いっきに 繋がる ロマンチシズムは 青木の 運命の 流れを 感じますね… 坂本も 素晴らしいけど… 青木繁は やはり 魅力がある… 青木繁の 即興は 池田満寿夫にも 通ずるような… 池田満寿夫も 最期まで 日本美術界では 異端だった… 青木繁の 血のながれ 魂には 青木繁の ような…一瞬の 流れ星の ような 光も やはり 人間 だとも 思いますね… どんな風に 生きても おなじ 一生です…

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Sun
2011.08.28
01:40

タブロウ #-

URL

Re: タイトルなし

ぱんどるさん、お帰りなさい。
かつてない画家の野外制作の実況ブログ、楽しく読ませていただきました。

青木繁は友人はじめ、福田たねの絵にも加筆していたそうですね。
玉石混淆の作品が残り、どれが加筆したものか、正確にはわからなくなっているようです。
本人もそういうところはどうでも良かったのはないでしょうか。

28才で「海の幸」この一点を残せた青木を幸せと見るか、哀れと見るか
凡人の私にはシャレでも「青木の幸」と思えてなりません。

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Fri
2011.08.26
18:54

ぱんどる #-

URL

わたしゃどうも 好きになれない作家なんですが、
エピソードが伝説となって冷静に作品を見れなくもあります。
ある意味のモナリザがソレでありますが、坂本繁二郎が同郷から連れて来て
パトロンの石橋に紹介したと言うことは、記憶しており
才能は評価して紹介したものの 坂本は青木の軽々しいマティエールが嫌いだった
ソレも納得の相反する二人の作品
とあるときに繁二郎の途中作品に青木が手を入れ
流石の繁二郎も激怒した。繁二郎の手紙だったかに書いてあったような?記憶があります。
私は、繁二郎の作品が大変好きな派^^;ですので
青木の作品は何故これほどまでにメジャーなのか?いまだに分からないほど
鈍い人間でありますが
世の中が評価している作家なので、絶対数で私の目のなさかと思われます。

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Tue
2011.08.16
03:21

 #

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